カンタンに読める!金色夜叉/現代版

突然出掛けたお宮に
貫一は疑念を抱く

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前編第6章-1-

 姿を消したお宮

  その翌々日、お宮は貫一に勧められて医者の診察を受けた。胃が弱っているのだろうと、飲み薬を処方される。貫一は医者の言うことを真に受けているが、患者のお宮はそんな馬鹿なと思いながらも薬を服用していた。悩み悶えて憂いに耐えきれぬ彼女の身体は特に変化も見えないが、その心の中で水と火のように相反するものが対立する苦痛は、どんどん膨れ上がっていくのであった。

  貫一は彼女にとって愛おしい存在だ。ところがこの頃ではその愛おしい人の顔を見ることを恐れている。見なければ見ないで見たくなるのに、顔を合わせれば冷や汗をかくほどの恐怖を感じるのだ。彼の優しく情け深い言葉を聞けば、身を斬られる思いに駆られる。お宮は彼の優しい性根を見ることを恐れていた。
  なのに関わらず、お宮の調子が優れなくなってから、彼女に対する貫一の優しさは普段より一層強くなった。彼女は死を求めるが死にきれず、生きることを求めたが生きられぬがごとく、悩み憂いてほとほと限界まで来ていたのである。

  ついにその苦しみを両親に訴えたのであろうか、ある日母と娘はそそくさと身支度をして、せわしなく車に乗って出掛けて行った。小さなスーツケースを携えて。

  台風一過の跡に小屋がぽつんと建っているかのように、わびしげに留守番をしていた主人の隆三は、ひとりで碁盤に向かって手筋を思案していた。歳はまだ六十には遠いが、頭髪はかなりの白髪で、長く伸びた髭も六分ほどは白い。それでも痩せた風貌ながら老いの衰えは見えず、穏やかで優しい顔つきに加え、どっしり構えて動じない風格があった。

  やがて帰宅した貫一はふたりが在宅ではないことを変に思って隆三に尋ねた。彼は静かに長い髭を撫でて微笑みつつ、
「ふたりはな、今朝、新聞を読んで急に思いついたとかで熱海(あたみ・静岡県熱海市の温泉地)へ出掛けたよ。何でも昨日、医者が湯治が良いと言ってしきりに勧めたらしいんだ。
  いや、もう急な思いつきで、足元から鳥が飛び立つようにバタバタと準備して、十二時半の電車で。
  ああ、ひとりで寂しくしてたのだ。まあ茶でも淹れよう」

旅に出る

  貫一はそんなまさかと疑った。
「はあ…それは、なんだか夢のようですね」
「ああ。わしもそんな気分だ」
「しかし、湯治は良いですね。何日ほど逗留するつもりで?」
「まあ、どうなのか。四五日と言うので、ほんの着のままで出掛けたんじゃが、なあに、じきに飽きてしまって、四五日も居られるものか。外で養生するよりも、家でしたほうが楽ってもんだ。何か旨いものでも食べようじゃないか、ふたりでな」

  貫一は着替えるために部屋に戻った。お宮が書き置きでもしていないかと思って探してみたが見つからない。彼女の部屋も探してみたがない。急いで出掛けたのだから、そういうこともあるのかもしれない。明日はきっと連絡があるだろうと思い返したが、さすがに心穏やかではいられなかった。
  彼が六時間大学院にいて帰宅したのは、心が痩せるほどにあの美しい面影に飢えて帰宅したのである。彼はむなしく飢えた心のまま、慰める術もなくデスクに向かった。

――ホント水臭いなあ。いくら急いで出掛けたからって、何かひとことくらい言っておいて行けばいいのに。ちょっとすぐそこまで出掛けたわけじゃないし、四五日でも旅行には違いない。
  第一、言っておく、おかないよりも、湯治に出掛けるなら出掛けると初めに話がありそうなもんだ。急に思いついたって? 急に思いついたからって急に行かなければいけない場所でもあるまい。俺が帰って来るのを待って、話をして、明日出掛けるというのが順序だろう。四五日くらいの別れなら顔を見ずに出掛けても、あの人は平気なんだろうか。

  女ってものは大体男よりも情が細やかであるべきなんだ。それが細やかじゃないとなれば、愛してないって考えるほかにないだろ。あの人が俺を愛してないだなんて考えられないが…
  いやいや、そんなことあるわけがない。けれども充分に愛してくれていると言うほど細やかではないな。
  もともとあの人の性格は冷たいんだ。そんなだからいわゆる『女の子らしい』ところがあまりない。俺が思うように愛情が細やかでないのも、そのせいかもしれない。子供のころから確かにそういう傾向はあったけれど、今ほど甚だしくはなかった気がするけどなあ。子供の時分にそうだったなら、今じゃなおさら細やかじゃなくちゃならないのに。そう考えるとあの人を疑ってしまうよ。疑わざるを得ないじゃないか!

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