カンタンに読める!金色夜叉/現代版

貫一の容体は?
そして新たな男が登場

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後編第1章-1-

 帰って来た息子

  翌々日のあらゆる新聞が、四谷坂町で発生した闇金業者暴行の一件を報じた。中には間貫一のことを誤って鰐淵直行と記していたものもあったが、被害者が翌日大学病院に入院したことに関しては、どの新聞も真実を伝えていた。
  とはいえ人の名を誤記して報じたことなど、読者に何ら不都合を与えるものではなかったのである。貫一や鰐淵を知らない読者にしてみれば、銭湯で起きた喧嘩も同じことだ。社会面を飾るごくありふれた日常だからとスル―してしまう。わざわざ手間をかけて犯人が誰なのかを考えたりもしないだろう。

  そして二人を知っている者はきっと、貫一も鰐淵も二人まとめて足腰が利かなくなるまでぶちのめされなかったことを残念に感じているはずだ。または彼が即死しなかったために、物足りなく思う者も居るに違いない。
  犯人は不明であるが、察するところカネの貸し借りで起きた恨みによる犯行だろうとさまざまな新聞が報道したように、人も皆そう思うところなのであった。

  直行は今朝、病院へ見舞に出掛けた。妻のお峯は患者の容体を案じながらも家で留守番をしている。夫婦は心を合わせて貫一の災難を悲しんだ。財貨を惜しまず、できるだけの手を尽くして少しの傷跡も身体に残すまいと祈っていた。
  腹心の部下と頼みにし、我が子同然に思っていた貫一の災難を、主人の直行はまるで我が身に受けた闇討ちのように感じた。無念の思いはとどまるところを知らない。こんな仕打ちに屈する鰐淵ではないと知らしめるため、入院中の貫一を手厚く労わりつつ、再び犯人が手出しをしないよう陰ながら卑怯者の息の根を止めようと気が狂ったかのように尽力していた。

  お峯はいずれこんな不慮の事態が夫の身に降りかかって来るのではないかと気を揉んでいる。もしそんなことになった日には、どうすれば良いのだろう。この悲しさ、この口惜しさ、この心細さどころでは済まないと思うにつけて、胸が恐ろしさで打ち騒ぐのを禁じ得なかった。
  せっせと奉公したために恨みを買って酷い目に遭った貫一は、この災難をきっかけに直行が我がことのように恨みを抱いている姿に、普段に増してしみじみとありがたく感じていた。しかしあれやこれやと考え事をしていると、確実に心は弱ってゆく。
  腹の内で生じていた恥や恐れ、やましさなどのずっと抑えていた感情がたちまちに湧き立ち、躍り出る。そしてそれらは彼の身を責め立てるのだ。彼はその痛苦に耐えられなかった。

  長年飼われている子犬ほどの大きさの老いた猫が、捨てられた雪の塊のようにファンヒーターの前に蹲(うずくま)っていた。片方の前足をだらんと伸ばして、イビキさえかいて熟睡している。
  お峯はその夜の騒動やら次の日の気疲れやらで、貧血で倒れそうな気分になりながら、うつらうつらとしてはハッと気を確かにしていた。

  そこへインターホンのチャイムが鳴る。夫が早くも帰って来たんだろうかと考え終わる暇もなく、ドアを開けて入って来たその姿。年齢は二十六、七くらい。身長は高くもなく、少々青白い痩せた顔にヒゲを生やし、髪には寝ぐせ、紺色のメルトンコートの襟を立て、黒いニットキャップを脱いで手にしている。
  べっ甲フレームの眼鏡に高い鼻。鋭い眼差しは、見るモノ全てに恨みを持っているかのようだ。

  お峯は思いがけぬ表情に喜びの念を込めて彼を迎えた。
「あら、直道(ただみち)。よく帰って来たわ」
  片隅にコートを脱ぎ捨てた彼は、古びた黒いジャケットに濃いインディゴの幅広のパンツを穿き、シャツは襟と袖口だけグレイに仕立てたものを着ている。
  彼女はいそいそと立ちあがって、そのコートをハンガーに架けた。

「えらいことになったな。父さんの様子はどうなの? 今朝の新聞を見て驚いて飛んで来たんだ。容体は?」
  彼は挨拶をすっ飛ばして、忙しげに尋ねた。
「ああ、新聞で。そうだったの。お父さんはどうもしやしないわよ」
「はあ? 坂町で大怪我をして入院したっていうのは?」
「あれは貫一さんよ。お父さんだと思ったの? いやーねえ。どうしてそんな思い違いをしたのよ?」
「あれっ、そうなの? でも新聞にはちゃんとそう書いてあった」
「それじゃその新聞が間違ってるのよ。お父さんはさっきから病院に見舞に出掛けているの。間もなく帰って来ると思うわ。まあ、ゆっくりしていらっしゃい」
  直道は余りの意外なオチに拍子抜けして、喜ぶこともできず唖然としてしまった。

「ああ、そうなんだ。間がやられたのか」
「ええ。可哀想にね。とんだ災難で大怪我なのよ」
「どれほどの怪我を? 新聞にはよほど酷いように出てたけども」
「新聞に書いてあるとおりだけれど、障害が残るほどのことはないみたいよ。でも完治までは三カ月はどう見繕っても掛かるって話。ほんと気の毒よね。それでお父さんもうんと心配してね。
  まあね、病院も特別室を手配して充分な手当てはしているんだから、心配するには及ばないのでしょうけれど。なにしろ大怪我だったからね。左の肩の骨が少し砕けたとかで、手がぶらんぶらんになってしまったとか、紫色の痣とか、蚯蚓腫れ(みみずばれ)とか。切り傷擦り傷はもう、身体じゅうにあるのよ。
  それにね、気絶するほど頭を強打されたのだから脳に異常が起きなければ良いけれどってお医者さんも言ってたの。でも今のところはそのおそれもなさそうな様子だわ。
  なにしろその晩、病院に運ばれた時は半死半生で、ほんの虫の息だったのよ。私、一目見てこれはとても助かるまいと思ったけれど、割と人間って丈夫にできているわね」

手術

「それは災難だ。気の毒なことに。でもまあ、充分に手当てをしてやるといいよ。で、父さんは何て言ってたの?」
「何てって?」
「間が襲われたことをだよ」
「どうせ犯人はカネのことで恨みを持って、悔し紛れに無法な真似を働いたんだろうって。そりゃもうカンカンに怒ってるわよ。全くね、貫一さんは普段ああいう大人しい人なんだから、つまらない喧嘩を売るはずもないし、そりゃそういう理由に決まってるんだわ。だからなおさら気の毒で何とも言えない気分になるわね」
「間は若いからそれでも助かるんだよ。父さんが同じ目に遭ったら命はないよ。母さん」
「まあ、嫌なことを言わないで!」
  しみじみと考えた直道は、静かにその恨めしい目を上げた。
「母さん。父さんはまだこの家業を辞めるつもりはないのか?」
「そうねえ…別に何とも…私にはよく判らないわね…」
  お峯は苦しげに鈍った声で返した。

「そのうち報いは父さんにも…
  母さん、間があんな目に遭ったのは、決して他人事じゃないよ」
「直道、またお父さんの前でそんなこと言っちゃダメよ」
「言うよ! 今日こそ言わないと」
「そりゃ言うだけなら、これまでも随分言って来たわけでしょう。あの気性なんだから、お父さんはちっとも聴かないじゃない。とてもじゃないけれど人の意見なんて耳を貸さない人なのよ。まあ、直道ももう少し目を瞑っていなさい、ね?」
「俺だって親に向かって口答えなんかしたくはないさ。大概の事なら目を瞑っていたいけども、こればっかりはそうはいかないんだ。ずっとそう考えて来た。
  俺は苦労知らずで生きて来たけれど、ただこれだけが苦痛で、考え出すと夜も眠れないんだ。他にどんな苦労があってもいいけれど、どうかこの苦労だけはなくしてしまいたいとつくづく思うよ。
  ああ、こんなことなら、まだ親子でホームレスになったほうが遥かに良いさ」

  彼は涙を浮かべて俯いた。お峯は自分自身をも責められる気がして、もしくは恥ずかしさもあり、忌まわしさもあり、この苦しい立場に耐えられなくなる。なんとか言い説きたいもののその術もなく、辛うじて言葉を紡いだ。
「そりゃね。直道が言うことはもっともだけれど、直道とお父さんとではまるで性格が違うんだから、万事考え方も別物でしょう。直道が言うことはお父さんが納得しないし、逆にお父さんがすることが直道には承諾できないわけよ。その中に割って入る私も困っちゃうじゃないの。
  うちも今じゃ相応に財産もできたことだし、こういう家業は辞めてしまって引退して、直道も嫁を貰って孫の顔でも見たいって、そう思うんだけれどね。ああいう気性のお父さんだもの。そんなこと言い出そうものなら、どんなに怒られるかと予想できてしまうわ。だからうっかり迂闊に言うことはできないのよ。
  直道の気持ちを思えば可哀想だと思うけれど、かといってどっちをどうすることもできないでしょう。陰で心配するばかりで何の役にも立たないけれど、これで私の立場もなかなか苦しいものなのよね。
  直道の気が済まないのは重々承知しているけれど、とてもじゃないけれどもね、何を言っても首を縦に振る様子はないわ。なまじっか言い争ってお互いに気分を害するのがオチなのよ――
  そりゃね、なんと言ったって親とたったひとりの子の仲だもん。お父さんだって心ではどれだけ直道を頼りにしているか知れないんだから。つまり、直道の考えはお父さんだって判っているのよ。お父さんも実の息子がそんなにまで思い詰めているものを心に留めないってことはないわ。でもお父さんにもそこにはお父さんの考えってものがあって、一概に直道の言うとおりにするわけにはいかないのよ。
  それに今日あたりは貫一さんのことで大層気が立っているんだから、直道が何か言うと却って良くないわ。今日のところはそっとしておきなさい。ね? お願いだから。ねえ、直道…」

  まったく自ら述べたようにお峯は板挟みの難局に立たされているゆえに、事を荒立てたくないと必死で諭した。涙が流れるのを堪え切れなくなった彼は、眼鏡を外して目を手で押し拭いつつ咽びながら答える。
「母さんがそう言うから、俺は普段から我慢してきたんだ。でも今日ばかりはもう存分に言わせてくれよ。今日言わなかったらもう言うチャンスはない。間がそんな目に遭ったのは天罰だ。この天罰から父さんが今後逃れられることはできやしないんだ。
  言うのなら今しかない。今言えないなら、俺はもう二度と言わないよ」

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