カンタンに読める!金色夜叉/現代版

パニックの貫一
思わず家から逃げたものの…

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続金色夜叉第7章-1-

 逃走

  家政婦が邸内を隈なく探しても見つからず、まあそのうちどこかから帰って来るだろうと待ってはみたものの、一向に姿を現さない貫一。自前の家なのにも関わらず居場所がなくなった苦し紛れに、彼は裏口から傘もささずにそっと出て行ったのだった。
  しかしながら、ただ一目散に逃げようとしただけに、すぐに思いつく行き先もない。あいにく降りしきる雨を軒伝いに避けながら、ただ足の向くままに任せて歩いていた。
  最近思い立って時折通っている碁会所の前まで辿りついたので、とにもかくにも雨宿りだと、そこに入る。客は三組ほど。各々静かに、窓の前に植わった竹の葉音をBGMにして相対していた。座敷の一番奥ではここの主人が干物のように長いヒゲを携えて、黙々と碁盤を磨いていた。手の他はピクリとも動きやしない。

  貫一は彼の横を通り、まずは濡れてしまった服を乾かそうと暖房の送風口の傍に寄った。濡れネズミの恰好を怪しんで何やら質問されたが、上手く回答できるはずもなく。彼はあまりに奇っ怪な今日の顛末を反芻し、今もなお胸の内で動揺轟いては、混乱がぐるぐると渦を描いていた。
  そして虚しく精神は傷つき、魂は揺さぶられ、自身は怒るべきなのか、そもそも喜ぶべきなのか、慰められるべきなのか。答えは見つからない。五臓六腑は燃えたぎり、四肢は今にもすぐ凍りつくかのようで、名状できない感情と煩悶が新たに彼を襲った。

  主人は貫一のずぶ濡れ姿以上に、そのいぶかしい雰囲気に目を留めた。訊かずとも何かあったに違いないと察する。
  貫一はここまで逃げてきたものの、安堵はできなかった。ふたりを置き去りにして出て来たが、一体どうなっていることか。自分は何をやってるんだか、などなど彼は惑うばかりだった。
  沸騰する心の騒がしさとは裏腹に、ほの暗い空に満ちる雨音を破って断続的に鳴る三面の碁盤の石の音が、甚だ幽玄の趣きを発する。主人は窓際の席の手合わせを見に呼ばれたので、彼はひとり残って未だ乾かない袖口をかざしながら、ますます限りなく惑える最中だった。

  にわかに人が騒ぐ声がした。貫一が驚いて顔を上げてみると、一同の視線が全て彼に集まっていた。口々に臭いと喚いている。見ればパーカーの端にタバコの火種が落ちて黒煙を放っていた。
  すぐに揉み消したので、場はすぐに静まり、彼もまた先ほどのように静かになった。

  しばらくして、入口から女の声がした。
「うちのダンナさん、もしかしてこちらに来てませんか」
  主人はヒゲにまみれた顎を巡らせて、
「ああ、奥にいらしてますよ」
と答えた。家政婦が来たかと貫一は顔を覗かせた。
「おお、傘を持って来てくれたか」
「はい。こちらにいらしたのですね。もう方々探したんですから」
「そうか。客は帰った?」
「はい。とっくにお帰りになりましたよ」
「四谷のも帰った?」
「いいえ。是非ともお目に掛かりたいとおっしゃって」
「居るの?」
「はい」
「それじゃ見つからんと言っておけ」
「ではお帰りにならないのですか?」
「もう少し経ったら帰るよ」
「じきに昼食の時間ですが」
「いいから早く行けよ」
「朝食もまだですのに」
「いいから!」
  家政婦は傘と靴を置いて、すごすごと帰って行った。ほどなく彼も焦がしたパーカー姿で出て行った。

――頭の中がごちゃごちゃした状態で煩わしい満枝に絡まれるなんて、余りに面倒臭くて無理――
  彼女が立ち去るまでは絶対家に帰るものかと心に決め、既に居場所を知られてしまった碁会所を後にしたものの、行くアテなんて皆目ありはしない。早や正午になろうかというのに、未だ朝飯さえ口にできず、財布すら持ってない状況ではどうにもならなかった。なおまだ降り続く雨の中を、彼は茫然と彷徨っていた。

雨
 

  日は長いものの、わずか数局の勝負を決しただけで碁盤の上は夢の間にも夕方の色をなしていた。折からの雨も上がったので碁好き達も席を立ち、ぞろぞろと帰路に就くのを見送るかのように碁会所の主人は照明を点けた。そんな時間になって貫一はようやく自宅に戻ったのである。
  彼は帰宅するなり、
「飯だ、飯!」
と家政婦を急き立て、奥の部屋のドアを開いた。部屋はほんのりと間接照明だけが灯されていて、人の影があった。
  彼は立ったまま目を瞠った。人影は後ろ向きで動きもしない。
――満枝、まだ帰ってなかったのか――
思わず舌打ちをした。女はなおまだ微動だにしない。ならばわざわざ声を掛ける真似はしまいと、彼は自室へ戻った。家政婦を呼んで着替え、食事も自室へ運ぶよう命じた。

  絶対に満枝は部屋に来ると思っていたが、どうしたことか食事が済んでも彼女は現れなかった。却って好都合だと、貫一は疲労の身体を伸ばし、窓辺にもたれて肘枕しつつ、しばらく喫煙に耽っていた。
  あえて恋しいと思ったわけでもないのに、苦しげにやつれたお宮の面影の幻が、頭の周囲でぶんぶん飛んで離れない蚊の羽音のように彼を襲う。彼女の切なる哀訴も思い出されてきて、もしやこの家を立ち去り難く感じてそのあたりに隠れているんじゃなかろうかと、疑念まで湧き上がる。風の音にもハッとして何度か頭を上げたりし、翻っては窓の向こうに揺れる竹の影を見ては、もしや…と考えたりしていた。

――お宮、いつまでここに居たんだろ…俺はいつだってひとりぼっちだな。
  思うにお宮の懺悔は、確かに誠心誠意のものだろうよ。そしてあいつが死んでも俺は許さないと思ったことだって、心からそう感じたことだ。
  お宮は悔いた。俺が赦せば赦されるものをどうしても赦せないものだから、堅く隔ててしまった俺の感情は、なお一層怪しいほどに侘びしさが募るんだ――
  貫一は侘びしさに消せない恨みを加えて、ある種の哀れにも似た思いを感じた。霞んで淡くぼやける今夜の月の色が、まさしくその哀れにも似ているからか、彼女を憎む気持ち以上に自らを悲しく思い続けるのだ。
  ついに堪え切れなくなったのか、窓を開け放てば、涼しい空に懸かる半月の光が真正面に彼の顔を照らした。憂える瞳に降り注がれる月光――

「間さん」
  居たのをすっかり忘れていた人の疎ましい声に、貫一は振り返った。そこには座った満枝の姿があった。いつも笑みを絶やさない目の媚はすっかり乾き、顔色も枯れたかのように見えた。酷い面構えだと貫一は心ひそかに怪しんだ。
「ああ、まだいらしたのですか」
「はい。居りました。お昼前から私、待ってたんです」
「ああ、そうでしたか。それは失礼しましたね。で、何か急な用件でも?」
「急な用がなければ、お待ちしていてはいけませんか…!」
  突然語気に激しさが加わって驚かされ、彼はうつろに女の顔を見遣った。
「ダメなのですね。悪いことだというのは、私、よく判ってるんです。第一、お待ちしていたことなんかよりも、今朝ほど私がここに来たことのほうがなお一層お気に召さないんでしょう? お楽しみの邪魔をしちゃったようで。間さん、私、申し訳ないことをしましたわ」

  満枝の眼差しは恨みの色を露わにし、貫一の顔を貫くかのように厳しく見据えていた。彼は苦笑しながら答えた。
「何を馬鹿げたことを言ってるんです?」
「今更隠さなくたって。若い男と女が同じ部屋で取っ付き引っ付き泣いたり笑ったりしてれば、大体察しがつくというものじゃありません? 私、客間に居ましたのよ。様子はあらかた判っているんです。七つや八つの子供じゃあるまいし、それくらいのことは誰だってすぐ見当がつくでしょ。
  それから間さんがお出掛けになった後、私、すぐにお部屋に押し掛けて行って、あの女性に会ったんです」
  くどいと聞き流していたが、ここに至って貫一は耳をそばだてた。

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