カンタンに読める!金色夜叉/現代版

欲に負けた選択をした
お宮は再び欲に負けるのか?

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後編第3章-1-

 こじれるお宮

  お宮は既に裕福さに飽きてしまっていた。そもそも彼女がこの家に嫁いだのは、迷える若い娘が華やかで豊かな生活ができる身分を一途に願ったからである。最初から夫への愛情みたいなものなんて、あっても良いし、無くってもこれまた良いと、ほとんど無用なモノのように軽んじていたのだ。
  今となってはその願いは通じた。しかも富に飽き飽きしてしまった彼女には、纏わりつく愛情が煩わしくて仕方ない。影を追い掛けるよりも儚い昔の恋を却って想い、心密かに胸を焦がしていたのである。

  かくしてお宮は唯継の顔を見るのも嫌になった。ところが寂しく引き籠っては自ずから物思いに耽るのを心の安らぎにしていたまでは良かったが、図らずも田鶴見のダンナの家で貫一を目撃してしまった。昔とさほど変わらぬ普通の大学院生のような姿の貫一を見てしまったのである。
  一度は絶えてしまった恋だけれど、遠い彼方に希望の道がうっすら見えたかのように彼女は感じた。彼の見た目が昔とちっとも変らないのは、今でも独身を貫いて、来るべき「その時」を待っているからではないだろうか――

  「その時」は果たして来るのかと、お宮は自らの心の底を叩いて自問するも、答えは得られなかった。さすがに自身の中に自身の知らないヒミツが潜んでいる心地がした彼女の心は、頼りなくも揺れ、それでも「その時」は来ると強く念じた。
  すなわちお宮が夫の愛情を疎ましく辛いと思うようになったのは、貫一を双眼鏡のレンズ越しに覗いて悶絶した日に始まったものである。その恋しさに苦しむあまり、なんとまあ言うに事欠いて、この贅沢な暮しに飽きてしまった末に、富豪の家を捨てて彼の元に走るべきか、走るのならば迷ってはいられないと考えることも多々起きるようになってしまった。
  敢えてそうしないのは、密かに貫一に望みを懸けながらも、彼の恨みがまだ解けていないのではないかと恐れたため。ただそれだけなのだ。

  もとよりお宮は唯継のことを愛してなどいなかったが、かといって憎んでいたわけでもなかった。けれども今となっては、憎しみの気持ちさえ湧き上がってくる。
  当時まだ恋と富の価値を知らなかった自分を欺き、虚しく輝く富を誇示して、掛けがえのない恋を自分の夫こそが奪ったのだ――悔やむあまりに恨みをも彼に押し付けて、彼女が自身の人生を誤ってしまったのは、全て夫の罪であると決めつけてしまったのである。

  こんな具合であったお宮は今年の一月十七日を迎え、一月十七日の雪を迎えて、貫一を激しく偲ぶにつけ、一転悪人の夫を疎んずるばかりであった。
  罪のない唯継は、こんな雪の夜に楽しみを授けてくれる美しい妻を崇拝するばかりだ。ありったけの誠心誠意を捧げ、蜜より甘い言葉を数々囁き続けるものの、お宮の耳にその声は届かない。雪の降る音だけがただただ耳に響くのだった。

  雪は明け方になって降り止んだ。
  白銀には華やかに陽が射し、みなぎる暖かい光を終日敷いたので、七割ほどの雪はその日のうちに融けてしまった。それゆえ翌日は道路の往来の妨げにもならず、ところどころぬかるんだ残雪が快晴の天に晒されて、少しずつ乾いてゆく。

  積雪のために外出できなかった人たちは、この天気と道路を見て、昨日から出て行く者も多かった。まして今日となっては、誰も彼もが家を飛び出る。
  普段からの備えが疎かな横丁や、だらしない裏通りや、屋敷町の小道で積もった雪の塊がいくつも丘のようになっているものや、はたまたお汁粉をぶちまけたように泥まみれになった道などなど、通行に難儀する箇所がいくつもあるのを知りもせず、大通りの雪が消えているさまだけを見て、「大丈夫だ」と早合点したのだ。
  こうして家から出ない人はひとりもいないんじゃないかと思えるほどに、道路が混み合う午前十一時ごろのこと。

残雪

  渋滞疲れの運転手が、泥だらけになった車を悩ましげに操っていた。客は黒いコートに身を包み、深い青緑色のショールを巻いた五十歳近い上品な婦人だ。南から車を滑らせ、桜田通り(さくらだどおり・東京都港区)を進む。
  とある交差点を西に曲がれば、そこからはなんとか神社の石垣に沿ってだらだらと登り坂になっていた。狭い道幅は並木の枝でさらに狭さを増し、残った雪が大量に泥混じりに踏み散らかされている。土塀でぐるりと囲まれて門に照明を掲げた邸宅に、車は入って行った。

  富山唯継邸だ。そしてその女性客はお宮の母親だった。唯継はとっくに出社した後で、いつもこの時間に訪ねて来るお抱えのエステティシャンも今しがた帰ったばかりなので、門前は残雪の清掃が追いついていなかった。
  ブラウスを重ね着してさらにガウンを纏い、髪は滝のように束ねられ、透き通るかに見える喉もとにはシルクのスカーフ。風邪でもこじらせているのだろうか、しきりに咳をしながらお宮は母を出迎えた。その格好のせいだけではあるまい酷いやつれ顔を一目見て、母は心底驚いた。

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