カンタンに読める!金色夜叉/現代版

中高年の面倒な色恋騒動に
巻き込まれて傍迷惑な貫一

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後編第5章-1-

 面倒再び

  枯葉を僅かに纏うヒバやモミの木を望む窓からは、庭というほどでもない荒れ放題の広場が見える。ただ麗らかな日影だけが広がって、そこらのウメの木は花がぼちぼち咲き始めているのが、怠けがちに醸し出そうとしている春の風情とでも言おうか。それでも春の色香が漂って来るのは愛おしいもので、霞んだ空にも慣れたヒヨドリが忙しげに鳴き囀っている午後二時過ぎ。
  病院内は静寂の塊で、たまに響くのは患者が廊下をゆっくり進む足音だけだ。
  枕の上で持て余すヒマさ加減ときたらもう、ヒマに押し潰されてしまいそうで、本を開いて読むもいつしか、貫一はまどろみの渦に巻き込まれていった。

  まさに夢じゃなくしてはありえないアヤシイ夢に弄ばれ、夢を見ているのだという自覚はありつつ、夢から覚めようとしつつ。なおまだ貫一は眠りの中に囚われていたが、どこからか人に呼ばれる声に驚いて、ようやくメンドクサそうに顔をそちらに向けた。そして愕然として瞳を凝らした。
  ベッドの傍らに立つ人物は、彼のアヤシイ夢の中に登場して終始離れやしないまさにその人だったのだ。何度目を凝らすも、それは紛れもなく面倒な来訪者、満枝だった。
  それでもなお、彼は夢じゃないだろうかと疑念を抱いた。それもそのはず、眼前にあるのは現実の景色というよりも、夢の中の様相だと断じたほうがまだ真っ当だったからだ。

  目の前に立つ満枝の美しさはいつも以上で、夢で見るべき姿であるかのように後光が射すほど輝き渡り、五つも六つも年齢が若返って見えた。まるで彼女の妹かと紛うほどだ。まして六十歳を超えた夫を持つ身には到底見えやしない。
  髪をアップにしてジャポネスクな蒔絵の櫛を挿し、黒のコートの捲れた裏地には琳派を思わせる春の野の景色が染められている。群青色のストライプのジャケットの下には、ワイン色の更紗のブラウス。紫色の革のベルトはかっちりと締まり、襟元は肌の白さがくっきりと映えていた。
  化粧も普段より濃い目で、例のブレスレットはうるさいくらいにキラキラ輝いている。いつも以上に気合が入った恰好ながら、心の咎めに堪え切れずに佇むその姿は、一段となまめかしい。

「お休みのところ、失礼しました。私、ここに来るべきじゃないって判っているつもりではありますが、是非にもお伝えしたいことがあって…ちょっとのお時間だけですから、どうか勘弁してくださいね」
  貫一の許可が出るまでは着席するのも憚られるといった様子で、満枝は漂うかのように立ったままだった。
「はあ、そうですか。先日あれほど申しましたのに…」
  心の内に燃える怒りを抑えるのと同時に、彼の言葉はそこで絶えてしまった。
「鰐淵さんのことなのです。私、困ってしまって。どうしたらいいのか…間さん、実はですね…」
「いや、そのことならもうお伺いする必要がないのです」
「あら、そんなことおっしゃらずに…」
「今日はこれで失礼しますよ。腰の傷がまた痛みますから」
「おや、それはお辛いでしょう」
「いや、これくらいはなんてこと…」

  貫一は無造作にニットのカーディガンを引っ掛けて臥せっていたが、疎略があってはいけないと満枝はまめやかに世話を焼き、やがて椅子に腰かけた。
「あなたの前でこんなことは言いにくいのですが、実は、あの日にですね…ああいう訳で鰐淵さんとご一緒しましたのですけれど、食事をするからどうしても付き合えと仰るので、湯島(ゆしま・東京都文京区)のお店へ寄ったのです。
  そうしたら案の定、鰐淵さんたら、いやらしいことをそれはもう、しつこいくらいに仰るんですよ。それに酷くあなたのことを疑って、始終そればっかり仰るので、私、これが一番対処に困っちゃって。

  あの人ったら年甲斐もなく、物の道理すら判っておられないにも限度があるってもので、一体私をなんだと思っておられるのか知りませんけれど、水商売をしている女に戯れるようなことを…それも一度や二度じゃないのです。
  私、悔しくて先日だって泣いたんですよ。で、今後二度とそんな事を仰らないように、私、その場で充分に申し上げたつもりですが、あの人ったら変に気を回して考える癖があるでしょう? だからとんだ八つ当たりであなたにご迷惑がかかるようなことがあっては、私、申し訳が立ちません。
  だからどうかそこだけはご承知くださいね…

病室

  今度鰐淵さんとお会いしたら、何か仰るかもしれません。さぞかしご迷惑かと思いますけど、そこは宜しいように仰っておいてください。
  それにです。あなたが少しでも私を好ましく思ってくれているのなら、そんな事を言われてもある程度仕方ないかもしれませんが、嫌い抜いていらっしゃる私みたいな者と何かワケありみたいに言われてしまうのは、さぞお辛いでしょう。でも私みたいな者に惚れられてしまった因果だと思って、そこは諦めてくださいね。
  あなたも因果なことならば、私も、私だってそれ以上に因果なものですよ。ほんとこういうのがまさに因果って言うのでしょうね」

  タバコの煙を独り燻らせるままに、満枝は儚さをどうすることもできず、萎れてしまった。それでも貫一は彼女の方を向くでもなく、返答もせず、頑として石のように横たわったままだ。
「あなたも諦めてくださいよ。これはそういう因果なのですし、せめてそうだと諦めてくれるなら、それだけでも私、幾分気が済んだ思いがするのです。
  間さん。あなたにいつだったか、私がこれほど想っているってことをいつまでも忘れないでって言いましたら、お気持ちは決して忘れませんって仰いましたよね。覚えてらっしゃるでしょ? ね? あなた、まさか忘れてはいないですよね? どうなんです?」
  勢いを付けて問い詰めてみれば、貫一は事もなげに、
「忘れません」
と返す。満枝は瞬きもせず彼の顔をじっと見つめた。
  その時、人の声がしてドアが静かに開いた。

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