カンタンに読める!金色夜叉/現代版

そして時間は流れ、
歳末の街角で…

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続金色夜叉第1章-1-

 帰って来たヨッパライ

  時は金なり。これを換算するならば、一秒の価値を二円と見積もって、平均的な睡眠時間八時間を除いた一日の正味の活動時間である十六時間は、実に十一万五千二百円に相当する。
  これを一年三百六十五日繰り返せば、その合計は四千二百四万八千円の巨額の値になるのだ。

  その観点において、ここに二十七日と押し迫った年の瀬の市中は、猫も杓子もせわしなく落ち着かない。世界滅亡の瞬間の到来をついに宣告されたのではあるまいかと感じるほどに、座っていた人は立ち上がって歩きだし、歩いていた人は駆け足になり、駆け足の人は踵が地に着いていないかのように足並みけたたましいのだ。そんな具合だからすれ違いざまに肩がぶつかって痛いだの、ぶつかるどころか砕けるほどに体当たりする者まで出る始末。それもこれも今を限りと慌て騒ぐ事由があって、まともな人までおかしなことになっているのである。
  彼らは皆、過去十一カ月を無駄に過ごし、一秒の塵も積もった四千二百万円也の大金をどこかに振り落としてしまった。だから後悔の念に追い立てられて今更ながらに血眼になり、草を掻き分け屋根瓦を剥いでまでも大金の行方を探り当てようとしているのに相違ないのだ。

  こうしている間にも普段ならたった二円の価値しかなかった一秒が、二百円にも二千円にも暴騰するこの年の瀬の貴重な時間は、ミサイルを連発するかのように瞬時に飛び過ぎ去って行く。それゆえに彼らの心の恐慌はもはや言葉にできないレベルにまで達してしまうのである。
  かたや普段から怠ることなく日々の務めを果たしている天は、今日も何ら変わることがなかった。空は悠々と青く隅々まで晴れ渡り、広々と静かに、しかも確固として地平を覆っていた。終日北風を吹き下ろし、夕焼けめいた日影を輝かして、師走に巻き上がる塵埃を照らしながら。
  見渡せば街の通りの正月飾りは一様に枝葉の末まで青々としており、延々と続く軒先に下がる注連縄も海のように深い幸福の霞を曳き流し、華やかな新春を迎える景色は、この年が転がるかのごとく過ぎ去って行くのを加速させる。

  かの人々が四千二百万円を失って行き交う中、梅の枝を提げて通るあの人やら、拳銃を携帯した警官やら、愛人と車に同乗する某の人やら、気取ってオシャレした人やら、またまたスポーツカーで乗りつける輩、結納の品物を運ぶ者、雑誌などを読みながら歩く奴、五人ほど数珠繋ぎになってデパートに入って行くグループなどなど、彼らは各々幾らかの実入りがあり、このように満ち足りているのであろう。少額の欠損で済んだ者は喜び、多額の負債を抱えた者は憂い、また稀には全く損をしなかった者もいて、彼らは楽しみ、ところが誰しも心の内側ではあくせくとしている。満たされた者はこれ以上欠けることがないように焦り、欠けている者は満たそうと、どちらにせよ彼らが求めるところに焦燥の要素がないものはない。

  人の世は朝でも花咲く昼間でも月が顔を出す夜であっても、求め急ぐ心しかないものだが、剛勇も臆病な心もすっかり消え失せてしまった年の瀬を、そんなのまるで関係ないと言わんばかりの男がいた。
  焼海苔のような風合いに縮れたパンツの裾が酔ったせいで脛まで捲れ上がっていて、ステッキを引きずりながら一冊の本を抱え、着ているフリースは薄汚れている。シャツも柄が消えかけていて、被っているキャップも元は黒だったのだろう。今や変色してダークグレイだ。ダークブラウンのコートにしても、何年も前の古着を誰かに譲ってもらったかのような妙に丈の短いものを恰幅の良い身体に纏っていた。

  強い風に煽られて吹きちぎれやしないかと見えるほどに、彼の衣服の裾がはためく。年齢は三十六か七だろうか。痩せ型ではないが夕空に映える一本の枯れ木のような風情で、負けん気が強く豊かに伸びた髭は、手入れすらおぼつかなくなって伸び放題になっていた。
  顔つきは悪くなく爽快で、やや傲慢にも見える雰囲気はあるが険しさはない。

  そんな彼は今しがた酒を飲んで、春の日長の野山を散策するかのように、西筋の横丁からこの大通りに出てきたところであった。
「瓢空夜静上高樓。買酒捲簾邀月醉。醉中拂劍光射月(南宋の政治家・陸游(りくゆう)の漢詩。『瓢空しく夜静かにして高樓に上り、酒を買い簾を捲いて月をむかえて酔う。酔中剣を払えば光月を射る』
  彼は朗々と漢詩を吟じ、歩みながら悦に入っていた。すっきり晴れた空は瑠璃色に夕映え、にわかに吹き勝る木枯らしが目口に沁みて針を身に刺したかにも感じる。烈火じみた酔顔を突き出しては太い溜息を吐いて、右に一歩、左に一歩とよろめいていた。

「往往悲歌獨流涕。 剗 却君山湘水平、斫却桂樹月更明。丈夫有志…(『往々悲歌して独り涙を流す。君山を 剗 却すれば湘水平らかに、桂樹を斫却すれば月更に明らかなり。丈夫、志有るも…』)
  再度吟じ始めた矢先、パトカーの連帯が南方に向けて通りを疾走するのに出食わした。彼はステッキを立て、去り行く連帯の後ろ影を勇ましいものだと見送って、
「我遊四方不得意。陽狂施藥成都市(『我、四方に遊んで意を得ず。陽狂して成都の市に施薬す』)
と漫ろにその漢詩の冒頭を、小声で朗らかに続けた。

酔っ払い

  まだ明るいうちから陽気に詩吟などするものだから、途切れなく往来する人々の目が皆釘付けになるのも無理もない。この年の瀬の修羅場をひとり天下人のように酔っ払っていられるのは、時期を弁えないのんき者なのか、それともヤケ酒なのか、豪傑か、悟りを開いた者か、はたまたただの飲んだくれか。彼のアヤシイ姿をサッと見て通り過ぎる人もいれば、顔を見ようと凝視する人もいた。彼の身の上を想像しながら立ち去る人もいた。
  彼は非常に酔っていたので自分がどう見られているかを把握していなかった。ただ街の賑わいを眺めては、どこを目指して歩こうか行き先も決まらないまま、しばらくその場に佇んでいた。
  これほどまでに人から怪しまれていた彼であったが、彼は今日この日に限ってこの場に姿を見せたわけではない。しばしば散歩がてら出歩くことがあったが、ここまでの酔っ払いっぷりは珍しいものだと、彼を普段から見ていた派出所の巡査も感じていた。

  やがて彼はステッキを引きずって進み、大通りを右に曲がった。二百メートルほど歩き、北西側に狭い坂道が伸びる交差点まで辿りついた途端――風を帯びて坂を下って来た車が、運悪くもよろめき歩く酔客の身体と接触してしまう。
  彼ははずみを打って二メートルも跳ね飛ばされ、地面に横面を擦って倒れた。

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