カンタンに読める!金色夜叉/現代版

料亭で貫一に迫る
満枝の魂胆は何だ?

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中編第2章-1-

 貫一に迫る美人クリーム

  柵の柱のそばで帽子を振っていたのは、荒尾の言葉のとおり、四年間行方不明だった間貫一であった。
  彼は親友の前から姿を消し、その消息さえ知らせていなかったが、陰ながら荒尾の動静を窺うことを怠っていなかったのである。今回の愛知県への転属も、午後四時発の新幹線で赴任することも掴んでいた。だからこそ人のことながらも仕事を休んで、同級生が偉くなって錦を飾る姿を見ようと、群衆に紛れてここに足を運んだのだ。
  何ゆえに彼は四年もの間音信を絶ち、また何ゆえに忘れざる旧友と直に顔を合わせて別れを惜しまないのか。彼の今の身の上を聞けば、この疑問もすぐに氷解するであろう。

  柵の外に立って列車が発つのを見送っていたのは、貫一ひとりだけではない。そこに集まった老若男女、富める者、貧しい者。皆、それぞれの心で喜び、気遣い、もしくは何も感じない…などなど、感情はさまざまだが目的は同じである。しかし、数分間の混雑のあと、列車が発車するとともに、一人去り、二人去って、彼ほど長々と立ち尽くしていた者は他にいなかった。
  やがて重い荷物を引きずるように彼がようやく踵を返した時には、押し重なるほどに柵のそばに集まっていた人々は、ほとんど消え失せていた。清掃人が三・四人ほど、箒を手に場内を掃除しているだけだ。

  貫一は湧き出る涙をぬぐって、他の皆より出遅れてしまったことに驚くと、にわかに急いでコンコースを出ようとした。しかし、ちょうど階段に差し掛かったところで、誰かは判らないが、待合室の中から貫一に声が掛かる。
「間さん!」
  慌てて振り向く。
「ちょっと」
  扉に半身を隠し、金のブレスレットがキザったらしく輝く手には、口元を覆うシルクのハンカチ。髪を束ねた女性が腰をかがめる姿が、そこにあった。その艶やかな顔には、何とも言えない愛らしい微笑みすら浮かんでいた。
「やあ、赤樫さん」
  女性が笑顔で迎えたのとは対照的に、貫一は冷然として眉ひとつ動かさない。
「いいところでお目にかかりましたこと。急ですが、お話をしたいこともありますので、ちょっとこちらへ」
  女性が中に入ったので、貫一も渋々ついて入る。女性がソファベンチに腰掛けたので、やむを得ず貫一もそのそばに腰を下ろした。
「実はあの保険と建設業の小車梅(おぐるめ)の件なんですけどね」

  彼女は袖をめくってゴールドの時計をちらっと見た。
「あなた、どうせ夕食前なんでしょう? ここじゃ話もできませんから、どこかへお伴しましょうか」
  紫紺のシルク地にゴールドを纏った口金が付いたハンドバッグを取り直し、女性はおもむろに立ち上がった。貫一は迷惑そうな表情を隠しもしない。
「いったいどちらへ?」
「どこへでも。私には判りませんから、あなたのお好きなところへ」
「私にも判りませんね」
「あら、そんなこと仰らずに。私はどこだって良いんですよ」
  黒褐色の横長のバッグを膝の上に抱えながら貫一が考えていたのは、どの店で食べるか選んでいたわけではなく、同伴するのを躊躇したためであった。
「まあ、とりあえずは出ましょう」
「そうですか」
  有無を言わせない態度に、貫一は女性に従って待合室を出た。入れ替わりで入室する者に、出会い頭で爪先をぐいっと踏みつけられる貫一。驚いて目を向ければ、背の高い老紳士の目尻が垂れ下がっている。その女性…満枝の色香に惑わされ、老紳士はうっかり失態を演じたようだ。その後もじっと彼は懲りない風で、この美形の同伴者をしばらく目で追っていた。

  二人は駅を出て、あてもなく新橋の方向へ向かう。
「ほんと、どこに行きましょう」
「私はどこでも」
「あなた、いつまでもそんな事を言っていてはキリがないですから、いい加減どこにするか決めましょうよ」
「そうですね」
  満枝は貫一の気が進まないのを知ってはいたが、逃がすわけにはいかないと、そんな無愛想ぶりにも甘んじて言葉を続けた。
「それでは、あなた、鰻はどうですか」
「鰻? 食べますよ」
「チキンとどちらがお好き?」
「どちらでも」
「困った人ね」
「なぜです?」

雑踏

  この時、貫一は初めて満枝の顔に視線を移した。媚たっぷりに見つめ返す彼女の眦(まなじり)は、何も言わずとも既に言いたいことの大半を物語っている。
  彼女の人となりを知り尽くし、このケダモノめと疎んじていた貫一でさえも、色っぽいと感じる心をさすがに制することはできなかった。
  満枝は貝殻のように白い前歯と金歯を見せて微笑んで続けた。
「まあ、どうでもいいことですね。それではチキンにしましょうか」
「それでいいです」

  二人は銀座へ出て、二百メートルほど歩いた角を西に折れ、とある路地に辿りついた。さっぱりした店構え。曇りガラスのランプには「鶏」の文字。傍から見るぶんに何やらワケあり風情な二人が、連れ立って入って行く。
  大層奥まった、部屋があるのかないのか判らない辺り、渡り廊下の先の離れに、六畳ほどの隠れ座敷があった。そんな奥に案内されるというのも、なるほど、さもワケありなのであろう。
  恐れるふうでもなく、困った様子でもないが、また全くそうでもなくもないという顔色で、貫一は慎ましげに黙って控えていた。こんな隠れ家で妖艶な女性と共にいるという、そんな思いがけぬ成り行きである。さすがに落ち着き払ってばかりはいられないはずだ。
  先付は手際良く満枝が好きに注文した。しばらくは無言の二人の間に置かれた灰皿から、一筋の煙が燻る。

「間さんも足を楽にして、一服お吸いなさいな」
「お構いなく」
「まあ、そんなことを仰らず、どうぞ」
「私は家でもこんな感じなのです」
「嘘ばっかり」
  こうまで言われても貫一は膝を崩さなかったが、バッグからタバコ入れを取り出した。あいにく一本も手持ちがない。店員を呼ぼうとする貫一を満枝が制した。
「間に合わせに、これをお吸いになって」
  満枝がタバコを勧めるその筒の容器の端は、純金が仄かに輝いていた。
  歯は金歯、ブローチもゴールド、リングもゴールド、ブレスレットもゴールド、時計もゴールドに加え、タバコ入れまでゴールドだとは!
  ゴールドだらけだ! どこもかしこもゴールド、ゴールド! そりゃ心の中までゴールドに侵されているんだろうさと、貫一はひとり可笑しさを堪える。
「いや、私は国産のは吸わないので」

  貫一が言い終わらないうちに、満枝はじっと見つめて返す。
「あら、決して汚いものじゃないのよ。気付かなくてごめんなさいね」
  満枝がハンカチを取り出して、タバコのフィルターを軽く拭ったので、貫一も少々慌てた。
「決してあなたのタバコだから吸わないというワケではありません。私は国産のは吸わないだけで」
  満枝は再び彼の顔を眺めた。
「あなた、嘘をおつきになるなら、もう少し記憶力を上げなくちゃいけないわ」
「はい?」
「先日、鰐淵(わにぶち)さんのところでは、あなた、お吸いになってたじゃありませんか」
「はい…?」
「その時お吸いでしたのは、国産の銘柄でしたわよ、あれは」
「あっ!」と叫んだ貫一の口は、すぐには閉じられなかった。満枝はあどけなく口を覆って笑った。この罰として貫一は、すぐさま三本の喫煙を強いられる羽目になってしまった。

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