カンタンに読める!金色夜叉/現代版

酔った満枝の口から出た
貫一を誘う意外な言葉

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中編第2章-2-

 満枝の誘い

  そうこうするうちに酒と酒器が並べられたが、満枝も貫一もお猪口(ちょこ)三杯飲むのがやっとの下戸なのだ。彼女は飲み口を拭いたお猪口を差し出して、
「さあ、おひとつどうぞ」
「いや、結構です」
「またそんなことを」
「今回は本当に結構なんですよ」
「それではビールならいいのかしら」
「いいや、酒は和洋どれもダメなんです。どうぞお好きに飲んでください」
  酒の席には礼儀がある。自分が酒を辞退する場合は、必ず他者に勧めて酌をするべきなのだ。そんな考えが甚だしいものだから、貫一が彼女の手を取って「お好きに」と会釈すれば、満枝も心憎いというよりはなんだか可笑しさがこみ上げて来た。
「私もお酒は弱くてからきしなんです。せっかく差し上げたものですから、おひとつ受けてくださいな」
  貫一はやむなくその一杯を受けた。結局酒を飲まざるを得ない状況になってしまったが、満枝が至急だと言っていた用件にはなかなか話が及ばない。
「時に、小車梅の件というのは、何が起こったのですか」
「もう一杯召し上がって。それからお話を始めますから。まあ、すごい! はい、もう一杯」
  彼はたちまち眉を顰める。
「いや、もうそんなには」
「それじゃ私がいただきましょう。恐れ入りますが、お酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の他に、まだお話があるのです」
「そりゃまた大層なことで」
「酔わないと言いにくいことなんです。私、少々酔っちゃいますから、あなた、申し訳ないけれど、もう一杯お酌を」
「酔っちゃ困ります。用件は酔わないうちにお話しください」
「今晩は私、酔うつもりなんですもの」

  その媚のある目の辺りはだんだん桜花の色に染まり、心楽しげにやや緩やかに寛いだ身体は、全く匂いこぼれるようだ。暑いからとシルク地のボレロを脱いでみれば、キラキラとした刺繍が入ったブラウスに、漆黒のベルトには華やかに紅色の模様が入っている。後ろ髪を耳の後ろで掻き揚げる左の手首には、二本の早蕨に蝶が宿るレリーフ加工を施した例のブレスレットが、爽やかに煌めいていた。
  常に忌々しく思っている物をこうもあからさまに見せつけられた貫一は、耐えられず苦々しい眉つきをして、密かに目を逸らせた。

  彼女の貴族のような装いとは相反して、貫一は黒いコートに安手のシャツを着ており、白いパンツも着古したものだった。
  彼を知っていた人なら、ぱっと見で彼と見定めることはできないかもしれない。彼の面影は少なからず変わってしまったからだ。愛らしいところは全て消えてしまい、四年に余る辛酸と憂苦が掛け合わさった色は、自ずから彼に暗い影を生み出し、まざまざと顔に表れていた。
  弛んでも折れることのなかった我慢強さは、沈鬱する顔の表面に見えるものの、かつてお宮を見ていたころのような優しい光が、再びその眼に輝くことはない。冷やかな眼差しと、言葉数の少なさは彼の最近の特徴であり、それゆえ他人は親しげに近寄っても来やしない。彼自らもそんなつもりは毛頭ないらしく、同業者は皆、彼を変人だとして遠ざけていた。
  あれほどの恋に破れた身で、どうして狂人にならなかったのか不思議なものだが、その理由をどう知ることができようか。

  彼は襟を正し、満枝が独りで興に乗じて酒を飲み続ける様子を眺めていた。
「もう一杯いただきましょうか」
  笑みを浮かべる眦は仄かに酔った色を増して、更に別の媚を加えていた。
「もう止した方がいいでしょう」
「あなたが止せと仰るなら、止めます」
「あえて止めろとは言いませんが」
「じゃあ、私、酔っちゃいますよ」
  返事がなかったので、満枝は手酌でお猪口を半ば傾けた。みるみると頬が紅く染まって行くのを、手で覆いながら彼女は呟く。
「ああ、酔っちゃいました」
  貫一は聞かぬ素振りでタバコを燻らせていた。
「間さん…」
「何ですか」
「私は今晩、是非お話したいことがあるんです。聴いてくださいますか?」
「それをお聞きするために、ご一緒したんじゃありませんか」
  満枝は嘲るかのように微笑んだ。
「私、なんだか酔っていますから、もしかすると失礼なことを申し上げるかもしれません。でもお気になさらないでくださいね。しかし酒に酔って申し上げるのではありませんから、どうかそのつもりで。よろしいですか」
「言っていることが撞着しているじゃありませんか」
「まあ、そんなこと仰らず。たかが女の言うことですから」
  これは面倒なことになってきた。回避はともかく、多少の厄介ごとは免れまいと、貫一は手を拱(こまね)きながら、伏目になって努めて関わらないようにしようと図ったが、満枝は擦り寄って来る。

タバコを持つ手

「これ一杯だけで、もう決して無理は言いませんから、これだけは受けてくださいね」
  貫一は何も言わずお猪口を手に取った。
「これで私の願いは叶いましたわ」
「安い願いですね」
  思わず笑い出しそうになる唇をぎゅっと結んで、貫一はわずかに苦笑してみせた。
「間さん」
「はい」
「あなた、失礼ながら、何て言うのでしょうか、鰐淵さんのところにまだ長くいらっしゃるつもりなのですか。しかし、いずれは独立されるんでしょう?」
「もちろんです」
「じゃあ、いつごろ独立されるつもりでいらっしゃるの?」
  満枝はたちまち無言になり、物思わしげに俯いて、灰皿の縁を弄ぶようにタバコでコツコツと打っていた。その時、照明がにわかに暗くなり驚いて顔を上げたところ、何事もなかったかのようにまた元の明るさに戻った。

  彼女はタバコを消してなお、しばし考えていたが、
「こんなことを申し上げては甚だ失礼とは思いますが、いつまでもあちらにいらっしゃるよりは、早く独立されたほうが宜しいんじゃありませんか。もし、明日にでも独立されるおつもりなのでしたら、私…こんなことを言うのは…おこがましいですが、大したことはできませんが、都合のできるだけはご用立てさせていただきますわ。そうなさいませんか?」
  意外な話に驚いた貫一は箸を持つ手を止めて、彼女の顔をきっと見詰めた。
「そうなさいな」
「それはどういう訳なのですか」
  実に貫一は答えに窮していたのだ。
「訳ですか?」
そう満枝は口籠ったが、
「別に申し上げなくてもお察しくださいな。私だっていつまでも赤樫のところに居ようとは思っておりませんもの。そういう訳なのでございます」
「さっぱり判りませんねえ」
「判らなくても良いですわ」
  恨めしげに満枝は言葉を絶って、横膝にタバコを摘む。

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