カンタンに読める!金色夜叉/現代版

美人の同業者・満枝
貫一は彼女に迫られて…

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中編第8章-1-

 迫る満枝

  用件は済んだとばかりに貫一がいそいそ出て行こうとするのを、満枝は「ちょっと待って」と引き留めて、奥の部屋に入って行った。仕方なくしばらく待ってみたものの、なかなか彼女は出て来ない。
  しかたないのでタバコを取り出す貫一。手持ちのライターはガス切れを起こしているようでなかなか火が点かず、仕方ないので部屋の隅で柔らかな灯りを放つアロマキャンドルの火を借りて着火した。手持ちぶさたに煙を吐き出しつつ、貫一は赤樫家の客間を目を細めて見回す。

  床の間の脇の袋棚にある置時計は十時十分前を指していた。違棚には箱に入った人形が大小二つ並んでいる。その下には七宝焼(しっぽうやき)のような一輪挿し。蝋のように半ば透き通った飾り玉も、水色の縮緬生地を三つ重ねにしてその上に置いてある。
  床柱には水牛の角を使った懸け花入れがあり、松やらハヤブサやらの派手派手しい蒔絵が施されていたが肝心の花は生けられていなかった。

  床には人工的に古びた色合いにくすませた鋳物の香炉と、羽二重のようにタテとヨコを交互に編んだ花カゴが飾ってある。そして横物の掛け軸。筆を引っ掻きまわして描いたかのような雨降り模様の富士山をバックに、金粉を用いて精細に表現された昇り竜が、金細工で拵えたかのようにリアルに雲間から姿を見せていた。
  頭を上げてみると、長押(なげし・鴨居の上にかぶせた横柱)には二メートルほどもある勇ましい海戦の水彩画が掲げられていて、座敷の隅には菊の花の鉢がふたつ据えられている。

  少し経って姿を見せた満枝は、服を着替えてしまっていた。シルク地の白いブラウスに青みがかった緑地の薄手のコート。そして派手なショールを携えている。髪もタイトに撫でつけたらしく、雰囲気を変えたメイクも相まって、さっきとは別人のように見えるではないか。
「お待たせしましたね。ちょっと私もそこまで買い物に出るので、実はご一緒したいと思ったのです」

  メンドクサイと思ったものの、以前口説かれてしまったいきさつもあって貫一は今更無下にも断れない。
「ああ、そうですか」
  満枝は近寄って声を低くし、
「ご迷惑だとは承知してますけどね」
「それじゃ行きましょう」
  聞き飽きたと言いたくなるのを堪えつつ、何も取り合わずに貫一は答えた。
「…で、赤樫さんはどちらまで行くのですか?」
「私は本郷(ほんごう・東京都文京区)まで」

  二人は連れ立って四谷三丁目(よつや・東京都新宿区)の赤樫の家を発った。通りの両側の店は灯りが点いておりまだ宵の内の風情ではあるが、秋とも思えない夜の寒さに往来はまばら。空には星も微かに見えるが漆黒の夜である。
「なんて寒さなのかしら」
「ですね」
「あなた、間さん、そんなに離れて歩かなくても良いじゃないですか。これじゃ話もできませんわ」
  満枝は貫一の左側に擦り寄った。
「これじゃ私が歩きにくいのですが…」
「寒いでしょ? 私、あなたのバッグ持ちましょうか」
「いえいえ、それには及びません」
「あなた、申し訳ないけれど、もう少しゆっくり歩いてくれないかしら。私、息が切れて」
  やむを得ず貫一は加減して歩いた。

  満枝はショールを手で揺り上げて言葉を続ける。
「前々からぜひお話をしたいことがあるのですけれど、その後ちっとも会っていただけないんですもの。間さん、あなたホントたまには遊びにいらしてくれてもいいじゃありませんか。私、もう決して先だってのようなコト、言いませんから。ふらっといらしてくださいね」
「それはありがとう…」
「お手紙を書いて差し上げてもいいかしら?」
「何の手紙ですか?」
「ご機嫌伺いの」
「あなたから機嫌を伺われる理由がないじゃありませんか」
「では、恋しい時に…」
「あなたが何も私みたいな男を恋しいだなんて…」
「好きになるのは私の勝手だもの」
「しかし手紙は人にでも見られると面倒ですから、おやめになってください」
「でも近日中に、私、お話をしたいことがあるんです。鰐淵さんのことについて。私、物凄く困っているんです。それであなたにぜひ相談したいと思ってるのです…」

  ふと見れば津之守坂入口(つのかみざかいりぐち・新宿通りと津之守坂通りの交点)の交差点だ。貫一はここで満枝を撒いてしまおうと思い立った。彼女が喋り続けるのを気にも掛けずに立ち止まる。
「それじゃ私はここで失礼します」
  不意に口走って暗い路地に入ろうとするものだから、満枝は戸惑った。
「あらっ、あなた、そちらからいらっしゃるおつもり? この通りを行きましょうよ。わざわざそんな寂しい道を選ばなくても、こっちのほうが宜しいじゃありませんか」
  満枝は離れ難く、五、六歩追いかけた。
「なあに、こっちのほうが近道なんですよ」
「いくらも違いやしませんのに。賑やかなほうを行きましょうよ。私、その代わり四ッ谷駅(千代田区六番町)までお送りしますわ」

「あなたに送っていただいてもしょうがない。夜も更けますから、あなたも早く買い物を済ませてお帰りください」
「そんな綺麗事の言い訳を取り繕わないで」
  とまあ、こんな按配で言い合いながら、行くでもなく留まるでもない貫一に連れ添って宛てもなく歩んでいた満枝だったが、やにわに立ちすくんで声を上げた。
「あっ! 間さん、ちょっと」
「どうしました?」
「ヒールが折れちゃいました」
「だからこんなところまで来なけりゃいいって言ったのに」
  貫一は渋々戻り寄った。

  ショールの内側から助けを求める彼女の手を、貫一は引き寄せた。力が余ったせいか、満枝はよろめきながら身を支えかねて、貫一にぶつかる。

貫一にしだれかかる満枝

「ああ、危ない」
「転んじゃったら、あなたのせいですよ」
「馬鹿なことを」
  貫一は助けた手を放そうとした。しかしテープでぐるぐる巻きにしたかのように、満枝の手はくっついて振りほどけない。怪しく感じて顔を見れば、満枝は背けた顔を半ばまでショールに隠し、貫一の手を一層強く握りしめて来た。
「さあ、もう放してくださいよ」
  それでもますます強く握られ、挙句にコートの内側に握った手を引き込もうとする。
「赤樫さん、馬鹿なことをしないで」
  彼女は一言も発せず、顔も背けたまま。ただ手はじっと握り締めて放すことなく、貫一が歩く方向に歩み出した。

「冗談はもうやめてください。ほら、後ろから人が来るから」
「来ても構いやしないわ」
  独り言をこぼすように言うと、彼女はますます寄り添った。貫一は堪えかねて、力任せに腕をうんと引っ張り上げた。彼女の手は離れなかった。それどころか彼女の身体が倒れ掛かって来た。
「あ、痛い! そんな酷いことをしなくても、そこの角まで行けば手は放しますわ。だからもう少しだけ…」
「いい加減にしなさい…」
  貫一は荒っぽく彼女を引き剥がすと、再び寄って来ようとする隙すら与えずに、ダッシュで駆け出して津之守坂をまっしぐらに下って行った。

  ようやく昇った三日月は乱れ雲が途切れたところから顔を見せ、遥か高い空の頂にしばし懸かっている。一抹の闇を透かして、防衛省の前庭の森と市ヶ谷駐屯地、その隣の街の建物は、物憂げに目覚めたかのようにおぼろげな姿を現していた。坂の上のコンビニの灯りは空しく道を照らすだけで、駆け下っていった男の影も、取り残された女の姿も残さなかった。

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