カンタンに読める!金色夜叉/現代版

お宮の懺悔の言葉
対する荒尾の反応は…

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続金色夜叉第2章-1-

 慟哭

  髭もじゃの横っ面に絆創膏を貼った荒尾譲介は、すっかり酔いが醒めてしまっていた。煌々と照らすスタンドライトの前で皺になったパンツの脚を仏像のように組んで、彼はタバコの煙を燻らしながら意気は厳かに、打ち萎れているお宮とファーのラグを挟んで対峙していた。
  ここは彼女が懇意にしていると言っていた医院の二階の奥で、畳敷きにも関わらず西洋風なインテリアでデコレートされた十畳ほどの部屋であった。会話の糸口は開かれた。

「間が姿を消した時に、僕に遺した手紙があります。だから話の詳細は知っているのです。その手紙を見た時、僕も怒りに震えた。腹が立った。
  すぐにあなたに会って、是が非でもこれは思い直すように真摯に忠告して、それでも聞き入れてもらえないのならば、人として対するわけにはいかない。腹の虫が収まるまで打ちのめして、生涯結婚なんかできないほどの障害を残してやろうと、心に思ったほどなのです。
  しかし間が言葉の限りを尽くしても聞かなかったのに、僕の言葉なんかまして聞き入れてくれるはずがない。それに間を捨ててしまった以上、キミは富山へ売約済みの売り物なわけだ。他人の売り物に傷をつけてはならない。――とまあ、そう思って、どうにもこうにも収まらない胸をさすって落ち着かせてしまったというわけです」

  お宮が顔を押し当てる袖の端からは、しきりに眉間に皺を寄せる風情が覗き見えた。
「宮さん、僕はキミがそんな人だとは思っていなかった。あれほど相思相愛だった間さえ欺かれたのだから、僕が欺かれたのは無理もないよね。
  僕は僕としてキミを恨むだけじゃ足りない。間に代わってキミを恨むよ。いや、恨み続けるよ。末代まできっと恨み続ける!」
  ついに堪え切れずお宮の泣き声が漏れた。
「間が人生を誤ったのは、キミが誤ったことが原因だろう? そりゃ間にしても、たかが女に棄てられたがために志を挫いて、命を擲ったも同然の堕落に果ててしまった不心得は大いに責められるべきだ。
  しかし間がいかに不心得だろうと、キミの罪は依然としてキミの罪。のみならずキミが間を棄てたからこそ、彼が今日のような有様に堕落したということを考えてみれば、キミは不貞を働いたどころの話ではないんだよ。併せて夫を刺し殺したも…」

  お宮は慄然として顔を振り仰いだ。荒尾の鋭い瞳は貫一の恨みが憑依したかのようで、その眼差しに彼女は身の置き所もなく身体を竦めた。
「…同じですよ。そうは思いませんか。
  で、キミが悔い改めたことは良いことです。これは人として悔悟するべきことだからね。けれども残念ながら、今日に及んでの悔悟は既に遅いのです。間の堕落は間その人が死んだも同然のこと。キミは夫を持って六年も経ってしまった。ねえ、覆水盆に返らずとは言うけれど、水はひっくり返って零れてしまった。そして盆も破れてしまったんだよ。こうなった以上、もはや神の力でもどうにもならないさ。お気の毒だと言いたいけれど、やはりキミが自ら作った罪の報いで、現在の状況になっているんだよ」

  お宮は俯いて、ただ泣くだけだった。
  ああ、私の罪! そうとも知らず犯してしまった過去の罪! この罪の深さはあの人だけにとどまらず、彼の友人までも憎しみを抱かせ、これほどまでに恨みを積もらせるものなのか。
  だとすれば必ず思い知る時が来るだろうと言ったあの人が、どうして私の罪を許すなんてことがあろう。ああ、私の罪は決して許されず、私の恋しい人とは一生逢うことすら叶わないのかしら――

  お宮は胸が潰れる思いで、涙に掻き暮れて人心地も失いかねないありさまだった。
  おのれ、カネのために愛を棄てた碌でもない女めと、憎い憎たらしいと思い続けてきた荒尾ではあったが、今こうして彼女の切なる後悔の言葉を目の当たりにすると、さすがに情が動いた。お宮は未だ顔を上げることができないでいる。

  その場しのぎの慰めの言葉なんて聞きたくないと言わんばかりに、お宮は顔を伏せながら頭を横に振って更に泣き続けた。
「自ら赦されたということは、誰にも赦されないことよりも良いことじゃないかい。それに自ら赦されたことは、最終的に人に赦されることの第一歩でしょう。
  僕はまだキミを赦すことはできない。恨んでいる。恨みはあるけれど、今日のキミの胸中は充分に察しましたよ。キミの胸中を察するからには、間の胸中もまた察しなければならない。
  いいかい? こうして誰が多く憐れむべきかと言えば、間の無念はそもそもどれほどのものだったのだろうかと、ね? 僕はそこを思うのですよ。そこを考えれば、キミの苦痛については、ただ傍観するより他にないんだ。

  こうして今日、図らずもキミにお目にかかった。僕はね、生涯の友人にしようと思った女性は、後にも先にもキミだけだったよ。いや、そもそもたびたびお世話になった。申し訳ないなあと思ったことだって何度あったかしれない。その友人に何年ぶりかで会ったのです。実に懐かしいですよね」
  お宮は嗚咽が迸ろうとするのをぐっと堪えて、濡れ浸った袖にひしひしと顔を擦りつけた。
「けれどもね、髪をアップにして立派な姿でおられるキミを見ても、決して愛らしいと思わなかったよ。それでも幸いか、キミが話したいことがあると言うからさ。よし、あのように間を欺いたキミが、今度は僕をどうやって欺いてくれるのか、それを聞き届けた上で、今日こそは打ちのめしてしまおうと手ぐすね引いて待っていたんだ。
  だからこそ、キミの悔い改めの言葉を、僕は密かに喜んで聞いていたのです。今日のキミはやっぱり僕の友人の宮さんだった。よくぞ悔い改めてくれた! さもなくばキミの顔にこの十倍の傷をつけない限り帰さないつもりだったのです。ね? 自ら赦されることは人に赦される第一歩――判りましたか?

泣く女

  で、間に取りなしてくれ、詫びを入れてくれという頼みだけれど、それは僕はしないよ。間に対して何をしたって仕方がないじゃないか。それに僕はキミに罪があると知っていながら、その人から依頼されて、はいそうですかと受ける人間ではないさ。もしも僕が間だったら、断じてキミの罪を赦さないだろうしね。
  親友の敵に遭っても、こうやって後ろ指も差さずに別れる。これが僕のキミに対する気遣いだと思ってください。
  いや、久しぶりにせっかくお目にかかりながら、嫌なことばかり聞かせてしまいました。それじゃまあ、このへんで失礼しますよ」

  荒尾が会釈して身を起こそうとしたその時、
「しばらく! もうしばらくいてください!」
  お宮は取り乱した泣き顔を振り上げて、重い瞼の露を払った。
「それではこの上どんなにお願いしても、あなたは私を貫一さんに引き合わせてくれないのですか。そうしてあなたもやはり私を赦さないとおっしゃるのですか」
「そうです」
  荒尾は忙しげに片膝を立てていた。
「どうかもう少しの間だけ、いらっしゃってください。すぐに食事が参りますから」
「いや、飯ならば欲しくはありません」
「私にはまだ申し上げたいことがあるのです。ですから荒尾さん、どうかお座りください」
「いくらキミが言ったところで、もうどうにもならん事じゃありませんか」
「そんな言い方をなさらず…少しだけでも堪忍してください」

  ファンヒーターに手をかざして、何か打開案を探るかのように目を逸らしつつも、荒尾は何も答えなかった。
「荒尾さん、これではとてもお聞き入れいただけないと私は諦めました。ですから貫一さんへのお詫びのことはもう言いません。それにあなたに赦していただくこともお願いしません」
  咄嗟に荒尾の視線は転じて、語り続けるお宮の顔を掠め去った。
「ただ一目だけ、私は貫一さんに逢って、目の前で私がどれほど悪かったのかを思う存分に謝りたいのです。ただあの人の前で謝りさえできたら、それで私は本望なのです。もとより赦してもらおうとは思っていません。また貫一さんが赦してくれるだなんて、私、思いもしません。赦されなくても構わないんです。私はもう覚悟を――」
  お宮は苦しげに涙を呑んで続けた。
「ですから、どうか貫一さんのところに連れて行ってくれませんか。あなたが連れて行ってくれるなら、貫一さんはきっと逢ってくれるはずです。逢ってさえくれれば、私は殺されても良いんです。あなたとふたりで私を責めて責めて責め抜いたうえで、貫一さんに殺されれば――私は貫一さんに殺してもらいたいの!」

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