カンタンに読める!金色夜叉/現代版

お宮から届く懺悔の手紙
貫一は無視を決め込むが…

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続金色夜叉第6章-1-

 来襲

  成田から戻って五日後、M.Shigis――の封書がまた届いた。貫一は例によって開封せずに燃やしてしまった。
  その筆跡を見ればたちまち浮かぶ差出人の面影は、唯継と並んで立っていた熱海の梅園での密会を目撃したときに発したレベルにも匹敵する怒りを彼に呼び覚まさせた。先日届いた二通にとどまらず、三度目にも及んだ上に、おこがましくもペンの力を駆使して、昔に戻りたいとの未練が俺にもあるはずだと夢想するとは――
  山の石を咥えて来ては、海面に落として海を埋めようとしたという精衛(せいえい)という中国の伝説の鳥のように、無駄な骨折りをするものだと吐き捨てた。彼は却って頑なに彼女を拒んで、自らを守ろうとしたのである。

  そうとは知らないお宮は、蟻が思いを運ぶに似た一方通行の手紙であっても、届くべきところに届いている以上、貫一が中身を読んでどう思っているのだろうかと考えていた。
  書き綴った誠意のうち、千にひとつでも彼に伝われば、彼女が願う解決への一筋の糸口になるかもしれない。そう信じて、人目がない機会があると必ずペンを手にし、限りない思いをしたため続けたのだった。

  唯継は最近お宮が書き物にハマっていると聞いて、それは良い趣味を見つけたものだと感心するあまり、高価な万年筆やら、上等の紙やら、教本やらを自ら買って来ては、この高尚な趣味にかまけている妻に贈った。
  しかしお宮はそれらを汚らわしいものだと感じ、一切使用することがなかった。さらには夫のデスクを使うことも止めてしまった。

  こうして怠ることなく綴られた手紙は、またも六日を経て貫一のもとへ届けられた。彼は四通目の封書もやはり灰にして捨ててしまい、一切を顧みることがなかったが、何日も経ったかと思う間もないうちに五通目の手紙が届いた。
  何通送って来ようが、たとえ千通にも及ぼうが、届いた先から燃やされて煙になるだけだと侮っていた彼であったが、かつて知っていたお宮がこれほどまでにしつこく執着してくることがなかったために、言い知れぬ怪しさを感じた。
  今日だけはすぐに焼いてしまわず、一度は目を通してみるか――
「しかし…」
  彼はたやすく判断を下さなかった。

「どうせ許してくれと書いてあるんだろ。それ以外にわざわざ読まなければならないような用件はない。もしあるとすれば、それは読むべきではない用事だからな。
  許してくれと言うのなら許してやる。または許そうも何も、既に許されている問題だ…と結論づけてしまうことになりかねない。
  お宮が後悔したのなら、後悔したでそれは結構。しかし彼女が後悔したから、俺が許したからといって、それが一体何だと言うのだ。それが今日の俺とアイツとの間に、どんな影響を与えると言うのだ。
  後悔したからアイツの純潔の傷が癒え、許したから富山との結婚がなかった昔に戻られるのか。その点においては俺はあくまで十年前と変わっていない俺のままだ。

  でもお宮! お前は一生穢れたお宮じゃないか。何もかも御破算になってしまった今日になって、後悔も許してくれもあったものか。無理筋な話だ。
  俺は穢れを知らない純粋なお宮だったから、彼女を愛していた。それをお前が自分で汚してしまったので、俺は恨んだのだ。そして一度汚れてしまった以上、汚れてない状態に戻すことは到底できやしないんだ。

  だから俺は何と言ったか! 熱海で別れるときも、お前の他に妻だと思える女性はいない。命に換えてもこの縁は断つことができないのだから、俺の胸の内を憐れだと思って、俺を選ぶ決心をしてくれと、実に男を捨てて頼みこんだんじゃないか。
  それを踏みにじって…何のつもりなんだ。今更後悔しただなんて…遅いんだよ!」
  貫一は封書を再三壁に鞭打って、ついには縄のように引き捩じった。

煩悶
 

  それ以降、お宮からの手紙は必ず週に一度届くというわけではなく、開封されないのにも関わらず送付され、届いても開封されないまま、数えてみれば早くも十通に達した。
  さすがに今や貫一も、見るたびに湧く怒りが段々と弱くなっていく。手紙が届くのを待っていたわけではないが、定期的にやって来る度々の封書に、悔い改めたお宮の存在を忘れることができなくなってしまっていたのである。
  とはいえ忘れることができないといっても、彼女を懐かしく思うわけではなく、また怒りが段々と弱まってきたにせよ、彼女を許し彼女を受け入れる気になったのではない。

  しょっぱなに恋する人に捨てられ、後には捨てたことを懺悔される貫一であったが、彼の古い恋は未だ彼の中に残り、お宮の懺悔は彼の身に纏わりつく。凍えて冷え切った身体に水をぶっかけるのにも似たふたりは、相対してお互いを救うことができない苦難を抱えているのだ。
  こうして彼は開封しない封書に向き合う度に、幾倍の哀しさを心に刻み、忘れていた恨みも再び生じ、怒りも湧き立った。憂いの独り身の儚い世をどうすることもできず、ただ気持ち穏やかに昼夜を過ごすこともなく、纏まらぬ考え事に時間を費やし、仕事にも支障をきたすこともあった。

  貫一は激しく物思いに耽って眠れないまま夜を過ごし、明け方近くになってようやく疲れて寝入った。
  新緑の雨。まだほの暗い七時の寝室。襲われる悪夢でも見ているのか、しきりに呻いていた彼は、家政婦に呼ばれて、夢から覚めてぼんやりとしながらもまだ半分眠っていた。すると再び家政婦に揺り起こされて、驚いて完全に目が覚めた。
「お客様がいらしてます」
「お客? 誰だい」
「荒尾さんとおっしゃいました」
「何だって、荒尾? ああ、そうか」
  彼は即座に起きようとした。
「上がってもらいましょうか」
「おお、すぐにお通しして。それで、只今起きたばかりなので、しばらく待っていてくれと伝えてくれないかい」

  貫一はあの再会のあと、三度も荒尾の住居を訪ねていた。しかし常に不在だった。おまけに二度手紙を投函したが、返事がなかったので、安否確認を満枝に質したものの、変わりなくそこに住んでいると答えるではないか。
  これはやはり本気で絶交する気なのか。しばらく冷却期間を置いたほうが良いかもしれないと一ヶ月あまり連絡を断っていたが、先方から訪ねて来ようとは。我が苦しみを語るに相応しいのは、やはり彼しかいない。友の来訪がこれほどに嬉しく感じるものなのか、今日は酒でも出して一日彼を帰してやるまいと、ワクワクする気持ちが湧いて来るのであった。

  絶交間際の音信不通状態だった荒尾が、またどんな用件で再び訪ねて来たのか。貫一はその意図を考えもせず、突然の来訪を怪しむこともしなかった。結局彼が音信不通だったのは、彼の飄然とした気まぐれな性格ゆえのものであり、絶交すると言ってはいたものの、旧知の情を捨てるには及ばなかったからだと考えた。彼が今もなお自身を友と慕って訪ねて来ることは、さもありなんと信じたのである。

  洗面所を出た貫一は、赤い腫れまぶたをしばたきながら、服装を整えることもせず、客間のドアを開いた。
  荒尾はいなかった。荒尾譲介はそこに居らず、代わりに美しく着飾った婦人がひとり、恥ずかしく居心地悪そうに座っていた。
  彼は当惑して入室するのをためらい、何者だろうか、女客もまた顔を背けていて、貫一には誰なのか判らなかった。細やかな雨が庭の樹に降り注ぎ、水が滴る新緑が眩しく照らしていた。

「荒尾さんとおっしゃるのは、あなたで?」
  貫一はまず会釈してソファに腰掛けたが、婦人はなおも顔を見せずに頭を下げて礼をした。しかも下げた頭と額に当てた手を一向に挙げようとしなかった。最初に何だ何だと驚かされた彼は、またも何事なのかといよいよ呆れて、彼女の様子を見つめた。
  一瞬の間があり、彼は慌ただしく相手を探るべく目を細めて、俯いた彼女をじっと見ていたが、
「何かご用でしょうか」
と声をかけるも、相手は無言。彼はますます目をきょろきょろさせて質問を重ねた。
「どういうご用件でしょうか。伺いましょう」
「……」

  雨露を受けたユリの花が、ほのかに風を受けたかのように、その疑わしい婦人はどう抗う術もなく、恥じ恐れたように顔をそっと露わにした。
「お宮!?」
  貫一は思わず声を挙げた。

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