カンタンに読める!金色夜叉/現代版

全てを悟った貫一は
お宮を罵り喚くのみ

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前編第8章-1-

 貫一の詰問

  霞んだ空とはいえ、月の色は匂いこぼれるほどで、仄かに白い海はどこまでも広がって、無邪気な夢を敷き詰めたかのようだ。寄せては返す波の音も、眠そうに怠惰で、吹いてくる風は人を酔わせようとする。連れ立ってこの浜辺を歩くのは、貫一とお宮だった。
  五歩六歩進んだあたりで、お宮はようやく言葉を発した。
「許してください」
「何も今更、謝ることはないよ。一体今度のことは小父さん小母さんの考えから出てきたのか、それと、宮さんも納得しているのか、それを聞ければ良いのだから」
「…」
「ここに来るまで、僕は信じてた。宮さんに限ってそんな考えを起こすはずがないと。大体信じるも信じないもないんだ。夫婦になる僕たちの間柄じゃ決まり切った話さ。
  昨夜、小父さんから詳しく話があったよ。それで『頼む』というお言葉だった」
  涙ぐむ彼の声は震えていた。
「大きな恩を受けている小父さん小母さんに『頼む』と言われた日には、僕の身体は火の中水の中にでも飛びこまなきゃならないんだ。小父さん小母さんの頼みなら、無論僕は火でも水でも飛び込む覚悟だよ。でも、火とか水なら飛び込むけれども、この頼みだけは僕はどうしても聴くことができないと思った。
  火やら水の中に飛び込めというよりも、もっと無理な、余りに無理な頼みじゃないかと…僕は申し訳ないけれど、小父さんを恨むよ。
  そしてだ。言うこともあろうに、この頼みを聴いてくれれば留学させてやると仰るのだ。お…お…俺は、いくら乞食同然の孤児だとしても、嫁を売ったカネで留学しようだなんて思わない!」

  貫一は足を止め、海に向かって涙を流した。お宮はこの時初めて彼に寄り添って、気遣わしげに顔を覗き込んだ。
「許してちょうだい、みんな私が…どうか許してください」
  貫一の手にすがって、彼の肩に顔を押し当てている様子を見れば、彼女も涙を流していた。
  波は揺れて遠くは霞み、月はおぼろげに湾内の砂浜を照らしている。空も渚も淡く白く見える中で、立ち尽くす二人の姿が墨汁を垂らしたかのような影を作っていた。

「それで僕は考えたんだ。これは一方で小父さんが僕を説得して、宮さんのほうは小母さんが説得しようというので、無理にここに連れ出したに違いないって。小父さん小母さんの頼みとあらば、僕は断ることができない身分だから、『はいはい』と言って聞いていたけれども、宮さんは幾らだって強情を張っても構わないんだ。何が何でも嫌だと、宮さんが言い通せば、この縁談はそれで破談さ。
  僕がそばにいると知恵を付けて邪魔をすると思うもんだから、遠くへ連れ出して無理やり納得させるつもりだったんだなと思い当たったもんだから、まあ心配で心配で、僕は昨夜一睡もできなかったよ。そんなことは万分の一もあるもんじゃないけれど、いろいろ説得されて、嫌とは言えない状況に陥って、もしや承諾するような羽目になったら大変だと思って…登校する素振りで、僕はわざわざ様子を見に来たんだ。
  バカだ…バカだ! 俺ほどの大バカ者が世界中探してどこにいるって言うんだ!! 俺はこれほど自分が大バカだと…二十五歳の今日まで知ら…知ら…知らなかった」

夜の海でお宮を責める貫一

  お宮は悲しさと恐ろしさに襲われて、小さな声を上げて泣いた。怒りを抑える貫一の呼吸は乱れる。
「宮さん、お前はよくも俺を騙したね」
  お宮は思わず慄いた。
「病気だと言ってここに来たのは、富山と会うためだろ?」
「まあ、そればっかりは…」
「おお? そればっかりは?」
「あんまり邪推が過ぎるってものよ。あまりに酷い。いくら何でもそんな酷いことを…」

  泣き続けるお宮を尻目に貫一は続けた。
「お前でも酷いって言葉を知ってるのか、宮さん。これで酷いって言って泣くくらいなら、大バカ者にされた俺は、俺は…俺は血の涙を流したってまだ足りないさ。
  お前が縁談に納得しないなら、ここに来ることを俺に一言も言わないってことはないだろ。家を出るのが突然だったんで、そんな暇すらなかったのなら、後から連絡くれればいいじゃないか。無言で家を出るどころか、何の連絡も寄越さないところを見れば、初めから富山と会う約束になってたんだ。それとも一緒に熱海まで来たのかもしれない。
  宮さん、お前はビッチだよ。あの男と寝たのと同じことだよ」
「そんな酷いことを。貫一さん、あんまりだわ。酷い」

  お宮はよろよろと泣き崩れつつ、貫一に寄りかかろうとしたが、貫一は突き放した。
「他の男と寝るなんてビッチとしか言えないじゃないか」
「いつ私が寝たのよ?」
「幾ら大バカ者の俺でも、自分の妻が他の男と寝るそばに付いて見ているものか! 俺と言うれっきとした夫を持ちながら、その夫を出し抜いて、よその男と温泉旅行なんて、寝てないって証拠がどこにあるんだ?」

「そう言われてしまうと、私は何も言えないけど、富山さんと会うのを約束していたというのは、それは全く貫一さんの邪推なの。私たちがこっちに来ているのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのよ」
「なんで富山が後から尋ねて来るんだ?」
  お宮は唇に釘を打ちつけられたかのように、黙ってしまった。貫一は、こうやって詰問する間に、彼女が過ちを悔いて罪を詫びて、その命までも投げ打って好きにしてくれと言うに違いないと信じていた。いや、信じなくとも、心の奥でそう望んでいたのだろう。

  ところがどうだ。お宮は全くそんな気配を見せやしない。朝顔の茎を引っ張っても蔓がフェンスから離れようとしないくらいの、この心変わりを貫一はにわかには信じられず、呆然としていた。

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