カンタンに読める!金色夜叉/現代版

ついには欲にまみれた
お宮を貫一は蹴り飛ばした

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前編第8章-3-

 別れ

「宮さん。お前に限ってはそんなバカな考えを持ちやしないって、俺は俺自身を信じるくらいに信じ切っていたよ。でも、やっぱりお前の心は欲まみれだったんだね。カネなんだね。いくらなんでも余りに情けない。宮さん、お前はそれで自分に愛想が尽きないのか?
  玉の輿に乗って、羽振りも良くなって、お前はそれで良いかもしれないが、カネと引き換えに捨てられた俺の身にもなってみるがいい。無念というか、口惜しいというか、宮さん、俺はお前を刺し殺して――驚かなくていい!――いっそ死んでしまいたいさ!

  それを堪えて、お前を人に盗られるのを手出しもせずに見ているだけの俺の気持ちは、どんなものだと思う? どんなものだと思うよ?
  自分さえ良ければ他人はどうなろうがお前は構わないって言うのか。一体俺はお前の何なんだ。何だと思ってるんだよ? 鴫沢の家にとっては厄介者の居候でも、お前にとっては夫になる男じゃないか。俺はお前のヒモになった覚えはない。
  宮さん、お前は俺をオモチャにしたんだ。普段からお前の態度が水臭い、水臭いって思っていたのも、今となってはそりゃそうだな。初めから俺は一時のオモチャのつもりで、本当の愛情なんて無かったんだろ。そうとも知らずに俺は自分の身よりもお前を愛していた。お前の他には何の楽しみもないくらいに、お前のことを想っていた。それほどまでに思っている俺を、宮さん、お前はどうしても捨てる気なのか。

  そりゃ無論、財力って点では、俺と富山とでは比べ物にならない。あっちは屈指の財産家。俺はただの学生だ。けれどもよく宮さん、考えてごらんよ。ねえ、人間の幸福ってのは決してカネで買えるもんじゃないよ。幸福と財力は全くの別物だよ。人の幸福の第一は家庭円満だ。家庭円満って何だって言えば、夫婦が互いに深く愛するということ以外にないじゃないか。
  お前を深く愛する点では、富山ごときが百人寄っても到底俺の十分の一にすらならないさ。富山が財産を誇るなら、俺は彼らが思いもよらないこの愛情で争ってみせるよ。夫婦の幸福は、この愛情の力だ。愛情無しなら、もはや夫婦ではないんだから。
  我が身にも換えてお前を想っているほどの愛情を有する俺を捨てて、夫婦間の幸福に何のメリットをももたらさない、むしろ害になりやすい、財産というものを目的に結婚しようってのは、宮さん、どういう考えなんだ?

  しかし、カネってモノは、人の心を迷わせるものさ。賢者も学者もヒーローも、どれほど優れた立派な立派な人物だってカネのためには、随分酷いこともするものだよ。それを考えれば、お前がフッと気が変わったのも、まあ、無理もないかもしれない。だから俺はそれを咎めたりはしない。
  ただ、もう一度だけ、宮さん、よく考えてみてよ。その財産が――富山の財産が、お前の夫婦間にどれほどの効力があるのかっていうことを。
  雀が米を食うのだって、わずか十粒とか二十粒だ。俵でまるごと置いてあったって、一度に全部食べるわけがない。俺は鴫沢の財産を譲ってもらわなくても、十粒とか二十粒の米に事欠いて、お前にひもじい思いをさせるような、そんな甲斐性のない男じゃない。
  もし間違って、その十粒か二十粒の工面が出来なかったら、俺は自分が食えなくても、決してお前に不自由させたりしないよ。宮さん、俺は、これ…これほどまでにお前にことを想っているんだ!」

  貫一は零れる涙を拭って続けた。
「お前が富山に嫁ぐ。それは立派な生活を送って、贅沢もできるだろうし、楽もできるだろう。けれどもあれだけの財産は、決して息子の嫁に使わせようと思って作られた財産ではないってことを、お前は考えなきゃ。
  愛情がない夫婦で送る立派な生活が何だっていうんだ! 贅沢が何だ! 世間には高級車に乗って心配気な青い顔でパーティーに招待されて行く人もいれば、自分の妻子を安い車に乗せて、自分で運転して行く男もいる。
  富山に嫁げば、家の中の人の出入りも激しいんだ。その中へ入って気苦労して、愛してもいない夫を持って、それでお前は何を楽しみに生きていくって言うんだ? そうやって尽くしてれば、いつかはあの財産がお前のモノになるって思っているのかい。

  富山家の奥様と言えば立派かもしれないが、食い扶持なんて今の雀の十粒か二十粒に過ぎないんじゃないか? 仮にあの財産がお前の自由になったとしてだ、何十億ってカネをどうしようってんだ? 何十億のカネを女ひとりの身で面白おかしく使い切れるもんかい。雀に六十キロの米を一度に食えって言うようなものじゃないか。
  男に養われなければ女が生きていけないのなら、女の一生の苦楽は男次第ってことになる。女が宝だと考えるのは夫なんだろ? その夫が宝どころかゴミだったら、女の心細さは安い車に乗せられてお出かけに連れて行かれる女房以下だろうに。
  噂じゃあの富山の父親は、家の中にも外にも複数の愛人を囲っているって話だ。財力がある人間は大体そんな真似をして、妻はただの床の置物にされて、言わば捨てられているも同然なんだぞ。捨てられていながら、その愛されている愛人よりも責任は重くて苦労も多くて、苦しみばかりで楽しみなんて無いって断言してもいい。
  お前が結婚する唯継だって、そりゃ望んでお前を貰うんだから、当分の間は随分愛してもくれるだろうが、長続きするわけがないさ。カネがあるから好きなことができるんだ。他の楽しみに気が移って、じきにお前への愛情は冷めてしまうのは判り切っている。そうなった時のお前の気持ちを想像してごらんよ。富山の財産がその苦しみを救ってくれるかい? 家にたくさんのカネがあれば、夫に捨てられて床の置物になってしまっても、お前はそれで幸せか? 満足なのか?

  俺がお前を人に盗られる無念は言うまでもないが、三年経った時のお前の後悔が目に見えるよ。心変わりしてしまった憎いお前だけれど、やっぱり可哀相でならないから俺は真摯に話すんだ。
  俺に飽きて富山に惚れてお前が嫁に行くのなら、俺が未練たらたらと何か言う訳にはいかないけれど、宮さん、お前はただ玉の輿に乗ることだけに取り憑かれているんだから、それは間違いだよ。大きな間違いだ。愛情のない結婚は、結局後悔するしかないんだよ。

  今夜、この場のお前の判断ひとつで、お前の一生の苦楽が決まるんだ。宮さん、お前も自分の身が大事だと思うなら、俺を憐れに思うなら、頼む! 頼むからもう一度、考え直してくれないか。
  一億四千万の財産と俺の学歴は、二人の幸せを保つのに充分だよ。今でさえ二人は随分幸せじゃないか。男の俺でさえ、お前さえいれば富山の財産なんか羨ましいとは思わないのに、宮さん、お前はどうしたって言うんだ! 俺を忘れたのか? 俺を好きじゃないのか?」
  彼はがっちりお宮を掴んで、襟元にまで涙を零しながら、枯れた葦が風に吹かれて揉まれるほどに身を震わせていた。
  お宮も離れまいと抱き締め、揃って震えながら、貫一の袖を噛んで咽び泣いている。
「ああ! 私はどうしたらいいんだろ! もし私があっちに嫁いだら、貫一さんはどうするつもり? 教えて」

  木を裂くように、貫一はお宮を突き放した。
「それじゃやっぱりお前は嫁ぐ気なんだな! ここまで俺が言っても聴いちゃくれないんだな! 腹の中まで腐った女だ! ビッチめ!!」
  そう叫ぶと貫一は脚を上げて、お宮のか弱い腰を力一杯蹴り飛ばした。音を立てて横向きに転がったお宮は、声も上げず苦痛を堪えて、そのまま砂の上に泣き伏す。貫一は猛獣を銃で撃ちぬいたかのように、お宮が身動きもできずに弱々しく倒れているのを、なお憎らしく見つめては罵った。

お宮を足蹴にする貫一

「おいっ!この…この…売春婦…! 貴様がな、心変わりしたばっかりに、間貫一、この俺はな、失望のあまり、発狂して人生のレールを踏み外してしまうんだ。大学院も何もかももう止めだ! この恨みのために、俺はな、生きながら悪魔になって、貴様のようなケモノの肉を喰いちぎって生きていくさ。
  富山の…ふ…夫人さんよ! もう一生お目にかかることもないから、その顔を上げて、真人間でいるうちの俺のツラを、よく見ておかないか。
  長年のご恩に預かった小父さん小母さんには、一目会ってこれまでのお礼を申し上げねばなりませんが、仔細あって貫一はこのまま長いお暇をいただきますから、これからもお達者でお過ごしください…宮さん、お前からそう伝言しておいてくれ。
  もし貫一はどうしたと訊かれたら、あの大バカ野郎は一月十七日の晩に気が狂って、熱海の浜辺から行方不明になったんだ、って…」

  お宮はすぐにでも飛び起きて立ち上がろうとするが、脚の痛みで再び倒れ込み、なかなか立つこともできない。それでもようやく這って貫一の脚に縋(すが)りつき、泣いているのか叫んでいるのか判らぬ様子で尋ねた。
「貫一さん、ま…ま…待って。あなた、これから、ど…どこへ行くつもり?」
  貫一はさすがに驚いた。お宮のスカートがはだけて露わになった膝が、おびただしい血で染まっていたからである。
「ん? 怪我をさせたか」
  寄ろうとした貫一を、お宮はぎゅっと掴んだ。
「ううん、こんなの構わないから。
  それよりあなたはどこへ行くのよ? 話があるから、今夜は一緒にホテルに帰ってちょうだい。ね? 貫一さん、お願いだから」
「話があるなら、ここで聞こう」
「ここじゃ私はイヤよ」
「何の話があるって言うんだ、さあ、手を離せ」
「離さない」
「強情張ると蹴飛ばすぞ」
「蹴られてもいいわ」
  貫一が力を込めて振り切ったので、お宮は無残に転び伏せた。
「貫一さん…」

  貫一は早くも数十歩先に歩み進んでいた。それに気付くと、お宮は必死で起き上がり、脚の痛みに何度も倒れそうになりつつも、後を追う。
「貫一さん、それじゃもう止めないから、もう一度、もう一度だけ…私、あなたに言わないといけないことがあるの…」
  遂に倒れてしまったお宮は、再び立ち上がる力も失せ、ただ声を張り上げて彼の名を叫ぶしかなかった。だんだんおぼろげにぼやけていく貫一の影が、脇目も振らず丘を駆け登るのが見えた。お宮は身悶えしてなお、呼び続ける。
  やがてその黒い影は、丘のてっぺんに立った。影の主はこっちを見ているはずだと、お宮は声の限りに叫ぶ。すると男の声が、遠くから聞こえて来た。
「宮さん!」
「あ、あ…あ…貫一さん!」
  しかし、首を伸ばして見回しても、目を見張って眺めても、声がした後、黒い影は掻き消すように消え失せてしまった。それかと思った影は、寂しげに微動だにしない木立でしかなく、波は悲しい音とともに寄せて、一月十七日の月は白く霞んでいた。
  お宮は再び恋しい貫一の名を呼んだ…

画像は熱海市「貫一お宮の像」のコラージュ
元画像の引用元:wikipedia/じゃんもどき様(http://ja.wikipedia.org/wiki/
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