カンタンに読める!金色夜叉/現代版

辛苦と絶望の人生
それはカネで解決できないものだった

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中編第7章-1-

 貫一の煩悶

  果てしない世間に放たれて、早々と近親者とも死に別れ、まして愛情を温める人に出会うことがなかった貫一の身は、一羽の鳥すら飛んでいない広い荒野に孤立不動で横たわる石のようなものであった。
  彼がまだ鴫沢の家にいたころはお宮を恋しく思い、彼女の優しい声と柔らかい手と温かい心を得て、彼は他に何の愉しみを得たいとも思わなかったほどに満足していた。
  彼はこの恋人を妻とし、それだけでなく母の一部分とし、妹の一部分とし、あるいは父の、兄の一部分にもして、たったひとりのお宮は彼にとって愉快な家族の団らんそのものだったのである。

  それゆえに貫一の恋は、青春を謳歌する一時の儚くも淡く麗しい夢のような類ではなかった。もっと濃縮されたものだったのだ。普通の人が妻になる女性に求める以上を彼はお宮に求め、その要求が過多ではないのかと思われるほどに依存してしまっていたのである。それでも貫一自身はその考えを極めて当然だと思っていた。
  彼はこの世にたったひとりのお宮を婚約者として得てしまったがために、万単位の桜の木が一斉に満開の花を咲かせた気分でいた。まるであの荒野にぽつんと佇んでいた石が、今や水を得て、霞に酔い心地になる中、のどかな日陰ですやすや眠っているかのように。 

  しかしその恋がいよいよ成就し、より濃やかになり勝ろうとするとき、最も憎いライバルに容易くお宮を奪われてしまった貫一の心はどれほどの衝撃を受けたことか。身も心も委ねられ偽ることを知らなかった恋人が、たちまちのうちに敵のように裏切って他人に嫁入りするさまを見た彼の心は、ましてどうだったか。
  早々と近親者とも死に別れ、まして一点の愛情を温める人にも出会わなかった孤独を感じただけにとどまらず、ここに来て失望を加え恨みを重ねたのだ。あの孤立不動の荒野の石は、霜が下りて木枯らしまで吹き誘い、皮膚を突き刺す人生の辛酸が頭蓋骨まで達して、痛苦で悩み続けねばならなかった。
  まったくお宮を奪われたことは彼にとって、かつて与えられた物を取り上げられた上に、与えられなかった物までも合わせて取り上げられたのも同義だったのである。

  あるいは貫一がその恨みをかなぐり捨てて、その失望をも忘れ去ってしまえれば良かったのかもしれない。しかしながら、彼にはその痛苦を消す力がなかった。一旦激しく傷つけられた心の痛苦は、長らく心の中に留まり続けたのだ。
  貫一が生業にしている闇金。人の道に外れたむごたらしく情のない仕事を自らに課すという良心の呵責は、彼の持つあの痛苦に合算して彼を蝕んだ。それでも仕事をしている間は少しでも痛苦を忘れることができたがために、彼はますます仕事に精を出す。隠れるべきでないところで隠れ、恥ずべき行為を恥じずに働けば、自然と裏社会の強敵にも遭遇し、悪い連中にも引っ掛かるものだ。弄ばれ、欺かれ、あるいは脅されるうちに、彼は毒を持って毒を制し、暴力には暴力で対抗することも止むを得ないと悟った。闇金社会の常識に染まって行ったのである。こうして貫一はますます恐れずにカネを貪るようになった。

  同時に例の絶え間なく続く痛苦は、彼にこっぴどく鞭打つ時もあった。心身ともに消えてしまうほど悩まされるたびに、あくせくカネを稼ぐ気力も消え失せて、いっそ死んでしまった方が楽なんじゃないかと考えてしまう。
  それでもこれは一時の気の迷いだ、空しい死を遂げてしまってはこれまでの苦労が水の泡じゃないかと思い直す貫一。
  何とかしてあの絶望と恨みを晴らしてこそ、胸もすく。その日こそ自分の死ぬべき時だと密かに自身を慰めていたのである。

  貫一はその痛苦を忘れる手段として、ひとつはその執着を霧消すべく目標を立て、それを目指して高利を貪っていた。ふと妄想しては痛苦からの現実逃避をしてしまうその目標とは何であろうか。
  ありがちな復讐のようにお宮や富山や鴫沢に攻撃を加えて、快楽を得るといったものではない。少し壮大で男らしく正々堂々とありたいと考えたからだ。
  それでも痛苦が激しく、懐旧の恨みに耐えきれない折々には、彼は熱い涙を流して祈るかのように嘆くこともあった。

泣き顔

「ああ…こんな思いをするくらいなら、いっそ潔く死んだ方が遥かにマシだ。死んでしまえばあれこれ悩み考えなくて良いし、苦しみからも解放される。それを命が惜しいわけでもないのに死にもせず…
  死ぬのは簡単だが死ねないのは、どう考えてもあまりにも無念だからだ。この無念をこのまま胸に収めて死ぬことなんてできないさ。
  カネがあれば幸せだなんて、そんなことあるか。何も面白いことなんてありやしない。人に言わせれば、今俺が蓄えたカネはお宮ひとりの価値に相当する額はあるって話だろうが、俺にはそうは思えない!
  第一、カネを持っている感覚すら持てないんだ。絶望した俺にとって、カネは希望を取り戻す道具にすらならない。希望の宝を二度と取り返すことはできないんだ。
  お宮が今、罪を詫びて夫婦になりたいと泣きついて来たとしても、一度心変わりして穢れたカラダになってしまったお宮は、決して元のお宮ではなければ、もう俺の希望の宝でもない。
  俺の宝は五年前のお宮だ。そのお宮は彼女自身でさえ取り戻すことはできないんだ。こうしている間でさえも、お宮のことを忘れられない。けれど、それは富山の妻になっている今のお宮じゃないんだ。ああ…鴫沢のお宮! 五年前の彼女が恋しい。俺が二百億のカネを積んだところで、昔の彼女は帰ってこないんだ! そう思えばカネなんてつまらん。
  額は少ないながらも今あるカネが、熱海へ追いかけて行った時のバッグの中にあったなら…クソッ!!」

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