カンタンに読める!金色夜叉/現代版

拡がる貫一の心の闇
救いの手はあるのか…

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中編第7章-2-

 八方ふさがりの貫一

  頭が割れそうになった貫一は、これ以上考えられなくなり茫然自失に陥って嘆きの幕を閉じた。これがいつものパターンなのだ。
  こうなると熱海の浜辺で泣き崩れた鴫沢の娘と、田鶴見のダンナの家で散歩をしていた富山の妻のふたつの姿が、貫一の脳内をぐるぐると駆け巡り消え去ろうとしない。彼はこの痛苦の耐え切れなさのために、前後をも顧みることなく他の何かに打ち込むよりも、往々にしてするべきでない振舞いを演じ、仇敵に相対するように債務の返済を迫っては酷な取り立てに興じていた。
  冷静になった時には自身の悪行を悔いるものの、また折に触れて感情が高ぶるとたちまち勢いに駆られて同じことを繰り返してしまうのだ。

  こうして心にモヤモヤが生じると、頭の中から消えない痛苦を忘れるために非道な行為に走る貫一。しかし彼はもとより正義を知らずに悪を働く性格でも、正しいことを喜ばずに不正を行う人間でもなかった。
  自分自身を曲げてこれらの行為に出る心苦しさは自らを俯瞰すれば恥ずかしく、世間を仰ぎ見れば恐ろしく、狭い世界にいながらも孤独な広さを感じる。それでもあの痛苦を味わうことに較べれば、良心の咎などは我慢の範囲内であり、むしろ気楽さすら覚えていたのだった。

  ひたすら心身を困憊させ思念に精神を費やしていただけに、気を休める暇すらない貫一は、体重は落ち、骨がちになり、顔色も疲が目立っていた。さながら水溜りの水のように不活性で沈鬱だった。
  いつも顰めた眉と空しく焦点が定まらず見つめる目。彼の体力がだんだん衰えて来るのに反して、精神はどんどん興奮するのだ。気持ちはさらに高ぶり、おまけに乱れる。激情を抑えようとして落ち着こうにも、ますます乱れてしまう。どうすりゃいいんだと心が砕け散る思いで、彼はひとり悩んでいた。
  おまけに漆黒の艶やかだった黒髪は、後頭部に若干の白髪も目立ってきた。額にも真一文字の皺が刻まれている。これは心が狭まってできたヒダではないのか。もはや言うまでもなく、彼の顔を覆う陰は日に日に暗さを増しているのだった。

  嗚呼、彼はその信念を遂げて、彼の外面も内面も全て悪魔の道に堕ちてしまった。貪欲の世界の雲は凝り固まって足元に沈殿し動かず、惜別の雨は随所に降り注ぐ。ふと突然現れては人の肉を喰らい、半死半生に陥っては腹を切り裂かれる境地になる。
  彼の居場所に陽は当たらない。冷たい風が常に吹くばかりだ。歩けども歩けども夜明けの来ない長い夜は、かれこれ千四百六十日続いている。懐かしい旧友の顔を見ることもなく、会ったとしてもかつての甘い恩情はもう味わえない。
  花が咲いても春の日の麗らかさを知らない。楽しみがやって来ても背中を向けてしまい、喜ぶことを知らない。進むべき道があっても歩けない。善があっても与することを知らず、幸いがあっても招き寄せる術を知らない。恵みがあっても受ける手段を知らず、空しい気持ちで利欲に耽ってはあるべき志を失い、ただただ迷った心で執着し続け、そして疲弊するのだ。

  嗚呼、彼は最終的に何をどうしたいというのか。間貫一の名は今や同業者の間では鳴り響いており、恐るべき彼の未来を暗示しているのではなかろうか。
  この耐えられない痛苦と、死ですら快く受け入れようとするまでの目的があるために、貫一は絶え間ない返済の催促と取り立てを行う。しかしそれは自ずから、ここにあそこに債務者の恨みを買うことになった。
  彼のために泣き、彼のために憤った者は少なくない。同業者であっても、時として彼のあまりに容赦ない取り立てを咎める向きもあったほどだ。
  ただ鰐淵だけはひとりこれを喜んで、凄腕の家来を持った将軍のような誇らしげな気持ちでいた。彼は今日の自分があるのは、かつて辛抱と苦労を重ねて来たおかげであり、まだまだ貫一にそれは足りないんだと、しばしば例を挙げては貫一をそそのかしていた。どこまでも彼の意に沿う人間に育て上げたかったのである。

痛苦

  貫一だって自身の職務が残忍非情で人の道に外れたことだということを知らないではなかった。鰐淵の教えが慰めになったというわけではないのだが、それでも職業の性質上、闇金なんてものはもとから不法なのであり、不法な職を全うする以上は非道な行為に手を染めることも当然の理なのだと彼は思っていた。自分がしている行為は同業者なら誰でもしている行為であり、自分一人だけが残酷なわけではないのだとも信じていたのだ。
  それゆえに彼は決して自分の所業だけが恨みを買う羽目に陥ることはあるまいと侮っていたのである。

  まったく彼が身を寄せる鰐淵直行に至っては、貫一が想像しうる程度を遥かに超えた残酷さと、結局教わることができなかった詐欺の才能を両手の武器にして、今の富を築いていた。
  この点においては彼は一も二もなく貫一のお手本に違いなかったのだが、実はそれほどの残酷さと詐欺の才能を欲しいままにしていたにも関わらず、天を畏れず人に憚ることもなくといった不敵の心の持ち主ではなかった。彼は夜遊びで外出することはない。家の中に祭壇を設けては崇拝し、得体の知れない新興宗教の大信者となって、献金寄付に財を惜しまなかった。ただただ自分の身の安全を祈ることだけに邁進していたのである。

  彼はこれまでずっと非道を重ねて来た。それに加えて家の繁栄と身の安全までもとなれば、これはまさに信心あるのみだと、仕え奉る教祖の守護を得るために奔走するばかりの日々を送っている。
  貫一は彼ほど残酷でも詐欺師でもないが、同時に彼のように神頼みで引き籠る臆病者でもない。人として生まれ人として生き、罪らしい罪など犯したことが無かった貫一。しかし天は却って彼を罰し、人は却って彼を陥れた。終生の失望と遺恨が断腸の斧を揮って、彼に死の苦しみと同じ程度の痛みを与えたことを思うと、天や人に憤る箇所はあれども、畏れるに足りないと考えたのである。
  貫一が最も畏れ最も憚るもの――それは自身の心だけなのであった。

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