カンタンに読める!金色夜叉/現代版

深夜帰宅の貫一が
妙なことを口走る?

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前編第4章-1-

 帰って来たヨッパライ

  漆黒の闇に包まれた貫一の部屋の時計は十時を指していた。彼は午後四時から向島(むこうじま・東京都墨田区)の八百松(やおまつ)という店で新年会だとか言って、まだ帰宅していない。
  お宮は部屋に入り、デスクの上のライトを灯しておいた。そこへ女中がヒーターを持って来る。お宮はそれを据え置き、
「そっちの壊れたファンヒーターを運び出してちょうだい。ああ、スイッチ入れておかないとね。貫一さん、すぐにお休みになるでしょうし」

  久しく人の気配が絶えていた部屋の寒さは、今ようやく人のぬくもりを得た喜びで、噛みつこうとするかのように肌に刺す。お宮は身震いしてすぐにヒーターの前に陣取り、ふと目を上げて書棚に飾ってあった時計を見た。

  暗く静かな夜に、デスクライトの光だけが美しい顔を照らす。限りなく艶っぽい。まだ正月が明けたばかりだからと、彼女はいつもより着飾って化粧も念入りにしているので、露を帯びた花弁の先に月が入りこんだかのように、背後の壁に映りこむ黒い影からでさえ香りがこぼれそうだ。
  ダイヤと煌めきを競った彼女の眼は、ぱっちりと見開いて時計の秒針を見つめている。ヒーターにかざす手を見てごらん、まるで真珠のようだ。そして花鳥の模様が入ったパープルのショールに包まれている彼女の胸の内を想像してごらんよ、一体何を考えているのだろう。そう、お宮は憎く思わないあの男の帰りを待ちわびていたのである。

  しばらくして甚だしい寒さを感じた彼女は、時計から目を逸らすと立ち上がり、ヒーターの対面にある貫一のベッドの上に座り直した。このシーツはお宮が繕ったもので、貫一はいつもこの上に寝ている。貫一が普段寝ているシーツに、今夜は彼女が座っていた。

ベッド

  もしかして…と感じた車の走行音がじわじわ近づき、けたたましい音となって家の門の前で止まった。お宮は「間違いない」と確信して立ち上がろうとするが、そこへ酔っぱらった声で物を言うのが聞こえてくる。貫一は下戸なので、今まで酔って帰って来たことがなかったため、貫一ではなかったのだと、お宮はまた力なく座り直した。時計を見ると早や十一時になろうとしていた。
  ところが、門扉を引き開けて千鳥足が玄関に入って来た。お宮は何事か理解できずどうしたものやらと、ただ慌てて駆け寄る。女中もキッチンから出てきた。
  足元もおぼつかないほど酔ってしまって、帽子は落っこちそうになり、どこぞのコンフェクショナリーのロゴが入ったバッグを左手に下げて、やじろべえのようにゆらゆら揺れてかろうじて立っているのは、まさしく貫一だった。顔はこれ以上ないくらい赤くなり、舌が渇くのに耐えかねて、しきりに唾を吐く真似をしつつ、
「遅くなってしまったかい? さあ、これお土産です。歸遺細君、又何仁也(中国の歴史書「漢書・東方朔伝」の一節『還ってこれを細君に遣る、また何ぞ仁なるや』・持って帰って妻に贈る。なんと思いやりがあるのだろうか。)
「んまあ! そんなに酔ってどうしたの」
「酔ってしまった」
「あらあら、貫一さん、こんなところに寝ちゃ困るわ。さあ、早くお上がりなさいよ」
「こう見えても、靴が脱げない…ああ、酔った」

  のけぞるように倒れた貫一の脚を掴み、お宮はなんとか靴を脱がせる。
「起きる。ああ、今起きる…はい、起きた…起きたけれども、手を引いてくれないと僕は歩けない」
  お宮は女中を先に行かせ、自らは貫一の手を引こうとしたが、彼はよろめいて肩にすがりつき、結局離れやしない。お宮は危なげな様子で彼を助けて、ようやく部屋まで辿りついた。

  ベッドの上に掻き下ろされた貫一は、崩れる身体をデスクにもたれ掛けて仰ぎ見るように天を向き、小声で吟じる。
「勧君莫惜金縷衣
勧君須惜少年時
花開堪折直須折
莫待無花空折枝(唐の時代に李錡(りき)が杜秋娘(としゅうじょう)という娘に詠んだ詩・『君に勧む、金縷の衣を惜むなかれ。君に勧む、須く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪へなば直に折る須し。花無きを待って空く枝を折ることなかれ』・高価な服なんか惜しむ価値はない。若い日々こそ惜しむべきだ。花が咲いて摘むのに良い時が来たらすぐに摘めばよい。花が散ってから枝だけ折っても意味がない)
「貫一さん、どうしてそんなに酔ってしまったの?」
「酔ってますよ。僕は。ねえ、宮さん、非常に酔ってるでしょ」
「酔ってるわね。気分も悪いでしょう」
「しっかりと、気持ち悪いくらい酔ってる…こんなに酔っているのには、深いワケがあるんだ。そしてだ。宮さんが僕を介抱するべきまっとうな理由もあるんだ。な? 宮さん!」

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