カンタンに読める!金色夜叉/現代版

貫一の病室を訪ねる
絶世の美女の正体は

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後編第4章-1-

 謝絶

  貫一が頭部に受けた挫傷は、危うくも髄膜炎を招くまでには至らなかった。身体に数ヶ所の傷を負ったのと同じく、避けられぬ若干の疾患があっただけで今や日増しに回復し、介助さえあれば起き伏しできるまでになっていた。
  それだけに入院生活は終日何もすることがなく、ベッドの上で静養するだけのただただ退屈なものだった。ほとんど生きながらにして葬られたかのように悶々としつつ、彼はさらにこの疾病と相関して発生したのか関係なく現れたのか、また別の苦悩にも晒されていたのである。

  主治医も研修医も看護師も付添人も、ナースステーションでも受付でも、はたまた患者の幾人までもが皆、満枝がしげしげと見舞いに来るたびに、目を側めて彼と何やら深い関係なのだろうと信じるまでになっていた。
  なんたって三カ月にも渡ってあの美人が絶えず出入りしていたのだ。噂は自ずから院内に広まり、ついには某教授までもそそのかされてそっと覗きにやって来るというありさまだったのである。
  最初のうちはどこの美人なのかと正体知れずだったが、医局の中に闇金で苦しんでいた者がいた。彼が女の正体を名うての「美人クリーム」だと漏らしたために、そりゃもう周囲は驚いて恰好の噂話となってしまう。貫一の浮名もこれに伴って囁かれる始末となってしまった。

  そんな騒ぎを知っていたわけではなかったが、何の理由もないのに満枝が足繁く訪ねて来ることに貫一はうんざりしていた。一度ならず彼女に直接言ったこともあったのだが、見舞いの名目で訪ねて来る厚意を拒絶しきれなかった。
  とはいえこれこそ情けを装った彼女の罠なのだと察知していただけに、ああそうですかと安易に受け入れるわけにはいかない。それどころか彼は元来彼女の人となりを憎み、その美貌なぞ歯牙にも掛けず、その切なる思いも汲もうとさえしなかった。
  そもそも彼女は夫ある身である。誤った道を選択して仇名を立てるわけにもいかぬと気遣いすればするほど、貫一は彼女がやって来るたび冷や汗をかいた。傷がにわかに疼き立った。そして全身が痺れたかのようなキモチになるのを、我ながら意志薄弱だと自分を責めつつも、こればかりはどうすることもできなかったのである。

  実際彼はこの煩わしさから逃れるために、日頃は努めて彼女を避けて過ごしていた。しかし今、彼の身柄は大学病院の一室に閉じ込められて隠れられる場所もない。ベッドに横たわっているしか術はなく、さながらまな板の上の鯉なのだ。抗うこともできず、他者が為すに任せるのみの我が身空に、彼は掻きむしるほど悶えていた。
  怪我で苦しむ枕元に迫る厄介事だけでなく、翻って自分の行動を顧みれば思いもしなかった類の迷惑の数々までも浮上して、気分は針のムシロ。現時点での彼の症状なんてものは、外傷はせいぜい三割にしかならず、むしろ精神的なものが七割を占めようというものだ。

  貫一もかねてから懸念していたことであったが、とうとう鰐淵は彼と満枝との関係を疑い始めるようになってしまった。彼はまた、鰐淵の疑念を察したことで、鰐淵と満枝の関係についてもほぼ推察することができたのである。

  例のめんどくさい人は今日も訪ねて来た。しかも心づくしの手土産まで持って来ていた。
  早や一時間余りが経ったものの、満枝は枕元で立ちつ座りつしながら、なかなか帰りそうもない。貫一は寄せ付けまいと反対側を向いて、目は覚めてはいるものの瞼を閉じてじっと黙っていた。折から付添人が退室したのを契機とばかり、満枝は椅子をにじり寄せて迫る。
「間さん、間さん、ねえねえ」
  指で枕の端をなぞりながら声を掛けたが、貫一は目が覚めていたにも拘らず何も答えない。満枝は立ち上がり、ベッドの反対側に回り込んで彼の寝顔を覗きこんだ。
「間さんって」

  それでもなお無反応だったので、満枝は貫一の肩の辺りを軽く揺すり始めた。さすがに知らぬふりを決め込むわけにもいかず、彼は初めて瞼を開く。それでも彼女はなお手を彼の肩に置いたまま、顔も枕のすぐそばから離さず、言葉を継いだ。
「私、あなたにちょっと話をしておかねばならないことがあるのです。聞いてくださいね」
「あ、まだいらしたのですか」
「いつも長居をして、さぞ迷惑にお感じでしょうけれど」
「――」
「話って、ほかでもありませんが…」

迫る女

  馴れなれしく寄り添おうとする彼女を疎ましく感じた貫一は、わざと寝返りを打って椅子がある方に向き直って言った。
「どうぞこちらへ」
  貫一の心の内を悟った満枝は、とことん憎らしい仕打ちだと手に持ったハンカチでベッドを叩く。こんな扱いをされながらなお、この人を慕わずにはいられない。どんなに努力しようとも、こうも軽くあしらわれるものかと羞恥してしばし立ち尽くしていた。
  にもかかわらず、貫一は身動きしない彼女のために再び声を掛けるにすら及ばない。

  気丈な満枝は居ても立ってもいられず、聞えよがしに、
「ああもう! あなたに軽蔑されていることを判っていながら、なぜ私はムカつくことができないのかしら? あなたって!」
とこぼしながら貫一の枕を掴んで揺すった。それでも彼は寂然として瞼を閉じている。
  これが彼女をますます苛立たせたのだろう。
「あまりに酷いわ。間さん、何とかおっしゃってくださいよ」
  彼は耐えられないとばかりに、苦り切った口元を引き歪めた。
「別に何も言うことはありませんよ。第一、あなたのお見舞い自体がありがた迷惑で…」
「なんですって!?」
「今後、お見舞いはお控えください」
「何てことを…!」
  満枝は眉を上げて詰め寄せ、かたや貫一は再び瞼を閉じた。

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