カンタンに読める!金色夜叉/現代版

鰐淵家にやって来る
怪しい老女は一体誰だ

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後編第6章-1-

 不気味な老女

  数日前から鰐淵の家には灯りが点る時間を狙って、どこから来るのかも判らないひとりの老女が訪ねるようになった。
  その女、年齢は六十を過ぎているようで、顔は皺が多いものの肌艶は良く、ヘアスタイルも乱れずに小奇麗に纏めてあり、見苦しい風貌というわけではなかった。ただ異様だったのは、ブラウンのコートを着たその上から風呂敷包みにした茶色の小荷物を肩がけしているのと、薄汚いゴム底のスニーカーを履いていたことである。
  女の用件というものは、折り入って家主に会いたいということであった。あいにくにも鰐淵は毎度不在にしていた。しかしそうと知っても特に残念そうな顔もせず、急ぎ帰るのだ。そして飽きもしないでまたやって来るのである。そんな調子であるから、応対するお峯もだんだん奇異に感じるようになった。

  三日連続でやって来たその日。挙動は普通でなく、目つきも凄まじい。憚ることもなしに通りかかる人も凝視しては、時折ニヤッと笑みをひとりで浮かべる顔ときたら、寒気がするほどに不気味である。
  気がおかしい人なのだろうか。しかも日が暮れたころをわざわざ狙って、時を違えずに訪問するとは、もしかすると我が家に祟りをもたらす何かなのかもしれない。お峯はだんだん恐怖すら覚えるようになってしまった。
  一度ちゃんと応対して二度と来訪しないようにしてもらわねばと、ひたすら夫に応対を頼んだおかげで、今日は直行もちゃんと午後四時ごろに帰宅して待機している。

「どうもあれは気が狂ってるのだわ。それでもまだ品が良さそうに見えるだけに、それなりの家か何かのお婆さんなのでしょうけどね。それでも何て言うのか、鼻が高くて、目が大きくて、痩せた細い、怖い顔なの。おまけに玄関先から聞こえる声がね、独特。いつでも決まって『お願いします。お願いします』って、上品そうにゆっくり必ず二回言うのですよ。
  もうね、その声を聞くだけでぞっとして。ああイヤ。なんだってあんな頭のおかしな人が来るようになったのかしら。本当に縁起でもないんだから!」
  お峯は壁に懸かる時計を見上げた。日暮れまでにはまだ少しあった。直行は難しげに眉を寄せ、唇を引き結んで答える。

「どこの誰だかも判らないのか。老女に訪ねて来られる心当たりも全くないのだがな。名前も言わないのか」
「訊きましたけど、言わないのです。あの様子じゃボケてて自分の名前も判っていないんじゃないかしら」
「それで今晩も来るのか」
「来られては困るわ。でも来るでしょうね。あんなのに毎晩毎晩来られては堪らないんだから、あなた、本当に来たら、しっかりと説き伏せて、もう来ないようにしてもらってくださいね」
「それはどうかな。なにせ相手は頭がおかしいんだろう?」
「狂人だから、私だって気味が悪いから、こうやって頼んでいるのではありませんか」
「いくら頼まれても、イカれた相手じゃ俺もどうしようもない」

  頼りにしていた夫のまさかの頼りない言葉に、お峯は落胆し動揺すら感じた。
「あなたですらどうにもならないのなら、警察に通報するしかないですわ」
  直行は笑った。
「まあ、そんなに騒ぐほどのことじゃないさ」
「騒ぎはしませんが、私、イヤなんですもの」
「誰だって気が狂った人間を好みはしないよ」
「ほら、そうでしょう?」
「何がだ」

  それにしてもその老女は一体何者なのだろうか。狂人なのかそうではないのか。強盗か、押し売りか、または直行の知り合いなのか。その正体が明らかになる時間は、刻一刻と迫ってきた。
  一日中どんよりと雲が垂れ込めて、薄日すら惜しんで漏らさない空がじわじわと暮れる。反比例して寒さは強まり、家々は早々と戸締りを始めた。まだわずかに明るさを見せていた分厚い氷を架けたような西の空には、陰々とした寂しげな余光が残っていたが、街のそこかしこには既に門灯が照り、白い光を放っている。

  一陣の風が砂を巻き上げた。怪しい例の老女はこの風に吹き出されたかのように姿を顕した。風で髪は乱れ逆立って、コートの裾をはたはたと翻しながら、漂わしげに行きつ停まりつ歩いている。町の南側を辿り辿って、ようやく鰐淵の住まう街路へとやって来た。
  堅牢な塀から乗り出して一本の梅の木が花を咲かせている。そこを斜めに門灯が照らしていた。鰐淵の家である。

  老女はまるで我が家に帰って来たかのような態度で、門を進み、つかつかと歩み寄って玄関のドアを開けようとした。開くはずもない。すると上品そうな例の声を上げるのだ。
「お願いします。お願いします」
  風がヒュウと鳴って吹いた。この声を耳にしたお峯は、震えてしまって立つこともできない。
「あなた。来ましたよ」
「うん、あれか」
  確かに気味の悪い声だと直行も感じた。手にしていたグラスをテーブルに置き、使用人を呼んだ彼は、玄関に出て行くものの、ドアを開けようとはしない。まずドアの内側から声を返した。
「はい、どなたですか」
「ご主人はご在宅でしょうか」
「居りますが、どなたさんで?」

エントランス

  返事がない。何やら呟いているのか、囁いているのか、小声でしきりに物を言っているらしいのだが。
「どなたさんですか? お名前は何とおっしゃるので?」
「お目にかかれば判ります。何にせよ――おお、まあ、梅が綺麗に咲いたじゃありませんか。一輪挿しにするのにぴったりの咲き具合で。さあどうぞ、こちらに出ていらして。ご遠慮せずに、さあ」

  開けようとしても開かないので、老女はドアを叩いて叫び始めた。いよいよ狂人めいてきたと直行も迷惑に思ったが、このままではどうしようもないと覚悟を決め、一度顔を合わせるだけ合わせてみることにした。心ならずもドアを開けるや否や、聞きしに違わぬ老女が滑りこむように入って来た。
「鰐淵はわしだが、何の用かね」
「おお、お前が鰐淵か!」

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