カンタンに読める!金色夜叉/現代版

来る日も来る日も訪ねて来る
奇怪な老女にお峯の心は震えて…

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後編第6章-3-

 今日もまた来る

  無闇に言葉を操って説得するよりも、相手の言うことに逆らわず従順に聞き入れたほうが善策だろうと直行は考えた。
「ああ、宜しい。この首が欲しいのかい。やろうとも、やろうとも。ここじゃ何だから、外へ出ようか。さあ、一緒に来なさい」
  狂女は苦々しげに頭を振った。
「お前の言うことは皆嘘だ。その手口で雅之を騙したのだろう。ほれ、ほれ見なさい。親孝行で正直者の雅之をだまくらかして散々カネをむしり取った上に、刑務所に放り込んだに違いないという証文をこの通り入れておいたんじゃ! これでもまだ白々しい顔をするのか!」

  広げた油紙を手に取り、直行の眼先へ突き付ければ、何を包んだあとの移り香だろうか、むっとするイヤな匂いが鼻をついた。直行はなおも逆らわなかったが、匂いに負けてやむを得ず顔を背ける。狂女は目を瞠りつつ、小躍りした。
「おおおお、ほれみろ! これは嬉しい。自然とお前の首が細くなっているじゃないか。ああ、そうじゃ、今にもう首が落ちるぞ」

  首を地面に落とすまいと慌てふためいて油紙で受けとめようとする狂女の腕を、直行はやにわに捉えた。ドアの外に押し出そうとするも、彼女は押されながらドアに縋りつく。
「ええい、お前は私を崖から突き落とすつもりだな。この年寄りを騙し討ちにするつもりなのだな」
  そう喚きながら身を捩じり返して突き飛ばした力の、不思議なくらいに強かったこと。直行は足を踏み滑らせて尻もちをついた。囃したてて笑う狂女。
  直行はすぐに起き上がると彼女の襟首を掴み、力任せに外へと放り出して即座にドアを閉めようとした。けれどもドアを閉めるのに手間取っている隙に駆け戻って来るや否や、彼女はその凄まじい形相を突きつけてきたではないか。

  余りの恐ろしさに直行は我を忘れて、狂女の顔面に平手打ちを叩きつけた。一瞬怯んだ瞬間を好機にドアを閉めたものの、ドアがぶっ壊れるかのごとく外から叩きまくる音がする。
「おい! 首を渡せ! 大事な証文も奪ってしまいやがって! 靴まで盗ったな! 靴泥棒、ペテン師! 首を寄越さないか!」
  直行はただ立ち尽くして様子を窺うしかなかった。抜き足差し足で忍び寄って来たお峯が、後ろから小声で彼を呼ぶ。
「あなた、どう?」

  直行はドアの外を指さして、未だ狂女が帰らないことを示した。お峯は玄関にスニーカーと油紙が散乱しているのを見つけ、こんなゴミじゃ何の役にも立たない人質だと煩わしく感じた。
「お願いします! はい、お願いしますよ!」
  例の声が聞こえてきた。お峯は身震いし、耐えきれず、すぐに立ち去らねばと、直行を家の奥へ引き寄せた。
  ドアを叩く音はその後も延々鳴り響いていたが、直行が裏口から様子を見に出てみれば、風が吹き荒ぶ門の梅の花が飛雪のように乱れて点在し、灯火が仄かに照らす辺りには彼女の影は見当たらなかった。

梅

  次の日もいつもの時間になると、狂女はまたやって来た。直行は不在だったので、使用人に託して彼女が遺して行った二品を返却させる。その彼女だが前夜の荒れに荒れまくった姿を微塵も感じさせず、殊勝にも大人しく聞き分けて帰って行ったのだった。
  お峯はその翌日にも彼女が必ず来るであろうことを恐れ、直行に在宅を頼んだのだが、果たして予感は的中した。やっぱり来たのだ。やはり同様に使用人を遣って不在を伝えるも、今回の彼女はすぐに立ち去る様子がない。
「それじゃお帰りまでここで待つとしましょう。実はね、絶対に受け取らねばならない物があるのですよ。それを持って帰らないと都合が悪いのでね。何日でも待ちますよ」

  狂女は戸口にうずくまると一切動かなくなった。使用人はさまざまに言い繕っては追い返そうとしたけれども、彼女の耳には一切入らないようで、石仏のように動じない。使用人は仕方なくその旨を奥へ告げた。直行も手の出しようがなくそのまま放置しておいたが、それでも二時間ほど経ったころには彼女の姿は消えていたのである。
  お峯はもう耐えられないと、この上は警察の手を借りるべきだと騒いだ。しかし直行は人を煩わせるには及ばないと言って聞き入れない。ならば次に来たときに追い払う手立てはあるのかと責めれば、害を為すわけじゃないのだから、野良犬が寝ていると思って気にするなと言うだけ。

  一切取り合ってくれない夫に、お峯は立腹した。この一件だけじゃない。直行は夫婦で話し合って物事を決断するということをしないのだ。女子供の主張に耳は貸せないと侮って取り合わない風情であり、口惜しいやら、恨めしいやら。
  そんな調子だから彼女の心細さも頼りなさも募り、いつしか宗教にのめり込むようになってしまっていた。夫に頼れないのならば神の導きと加護に拠るしかないと、八百万の神という神を手当たり次第に崇めていたのだ。
  その中に数年前に誕生した神道の新たな一派で、天尊教と称するものがある。神体として奉っているのが紫色に光り輝く一等星で、その名を大御明尊(おおみあかりのみこと)という。天地がまだ混沌として太陽や月もまだ誕生していないときに高天原(たかまがはら)に出現したことにより、天上天下万物を司る者として諸々の不足を補い、欠けた物の全てを全うするべく大きな誓いを立て、国土人民に安寧と恵みを与える存在となったのだそうだ。

  お峯は熱心にこれを信仰し、この神を自分自身と一家の守護神だと敬い奉った。何か事があれば熱心に祈りを捧げて、ひとえに神頼みをするのだった。
  この夜も直行と寝所を別にして身を清め、ロウソクを何本も立てて、災難の即滅と怨敵の退散を祈願した。
  にも拘らず翌日の夕刻になればまた狂女はやって来たではないか。直行は外出から未だ戻っておらず、今日もしも罵り騒いで家の中に上がり込む事態になれば一体もうどうすればいいのかと、前後不覚になるばかりに動転していた。

  取り次ぎには使用人を出して遣り、自らは神棚の前に駆けつけては震え声をすすり上げて、全身全霊で祝詞を読み上げるお峯。
  狂女は不在の報を聞いても特に騒ぐこともなく、昨日と同様にここで帰りを待つと言って同じ場所に同じようにうずくまってしまった。
  使用人がドアに鍵を掛けて奥へ戻って来た。しばらくは何の物音もしなかったが、にわかに話し声というべきか、あるいは罵るような声がしきりに聞こえるではないか。
  直行が知らずに帰宅して彼女にとっ捕まったのだろうか。キッチンの窓からそっと覗いてみれば、彼女以外の人影は見えない。狂女は独り言をぶつぶつ言っているのだ。
  独り言の内容は使用人の耳には判別できなかったが、我が子がこの家の主に欺かれて無実の罪に陥れられたいきさつを順序お構いなしに語っては、泣いて怒って訴えていたのである。

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