カンタンに読める!金色夜叉/現代版

鰐淵の餌食になった青年
その恨みを晴らすべく…

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後編第6章-2-

 老女の仇打ち

  身体を乗り出してまじまじと睨まれた直行は、身の毛がよだつ心地になり身震いがした。すると老女は凝視していた視線を外し、今度は皺だらけの手で顔を覆ってさめざめと泣きだしたではないか。
  呆れ果ててしまった直行は、落ち窪んだ眼を凝らしてその泣き顔をただただ眺めるしかない。
  彼女はまだ泣き続けていた。
「判らんなあ! 一体何事なのだ。わしに用があるんじゃなかったのかい」

  腐った木がそのまま自ら崩れ落ちて行くかのように打ち萎れて見えた老女だったが、今度は猛然と顔を振り仰ぎ、血声を絞った。
「この極悪詐欺師め!」
「何だと!?」
「大、大悪人だ! お前みたいな奴が刑務所に行かずに、うちの…うちの…雅之(まさゆき)のような孝行者が…
  武田信玄を先祖に抱えながら、無礼なならず者に欺かれ、このまま断絶する家に誰が嫁に来ると思うのか。柏井(かしわい)の鈴(すず)ちゃんが嫁いで来てくれれば、私は幸せだよ。雅之だってどれだけ嬉しいだろうに。
  子を捨てる例はあれど、刑務所に送る親なんかどこの世界に居ると言うんだ。二十七になっても、まだ世間知らずのあの雅之を、お前はよくも騙してくれたな! さあ、さあさ、仇を討つから立ち合うが良い!」

「あ、こりゃますます頭がおかしい」
  直行は舌打ちしながらひとりごちた。
  みるみるうちに老女の怒りは激し、その形相はたちまちにおどろおどろしく、妖怪にでも化けたかのように見えた。一挙一動が先程までと別人のように、足を踏み鳴らし踏み鳴らし、疎らになった白い歯を牙のように露わにして、一念を込めたその眼は直行を射抜く。
「亡くなった夫からくれぐれもと頼まれた秘蔵の秘蔵の一人っ子だ。それを騙してお前が刑務所送りにしてしまったのだぞ。私を女だと侮って、そんな不埒を働いたのか。なぎなたの心得だってあるのだ。恐れ入ったか!」

  彼女はたちまち得意げに笑い始めた。
「だとしてもまあいいわ。うちでは鈴ちゃんが今日のために着飾っててね。その美しさったらもう! ほんとあんな美人で、気立ても良くって、何でもこなすのよ! 頭も良いし、家事もできるし…
  そんなこと喋ってる場合じゃなかった。鈴ちゃんが首を長くして待っているというのに、早く帰らないと。大層ご面倒おかけしましたわね。さあさあ、タクシーを待たせて置くから、急いでちょうだい。靴もここにあるでしょ。履いてちょうだい。なあに、私はすぐ電車で行くから」

  そうこう言う間にも忙しげに靴を脱ぎ、並べ直したかと思ったら、今度は背負っていた風呂敷包を解いて、直行の眼前に茶色の小荷物を広げだした。
「さあ、お前の首をここに入れるのだ。ころっと落としてね。すぐに落ちるから、とっとと覚悟しなさいな」
  さすがにどうして良いのか判らず、直行は途方に暮れてしまった。老女は目を細めて、どこから絞り出したのかも判らぬ世にも怪しい声を放って、ニタニタと笑っている。直行は何とも言えない凄みに圧倒され、思わず背筋を伸ばした。

包丁を握る手

  懲役だ、雅之だと言う言葉から、直行は初めてこの狂女の正体に思い至った。彼の債務者である飽浦雅之(あくらまさゆき)は、私文書偽造等罪の咎により被告として十日少し前に、罰金二十万円、禁固一年の刑に服役することになっていた。彼女はまさにその彼の母であった。母はこのために乱心していたのだ。
  しかし直行はただそれだけを思い出したに過ぎず、それ以外になおまだ思い至るべきことがあるのだと考えようとはしなかった。雅之が私文書偽造等罪で処罰されたのは全くの表事情でしかない。その罪は直行によって裏で謀られたものであり、雅之は彼に陥れられただけなのにも関わらず、である。

  直行たちのような闇金業者が使う卑劣な手段の中には、次のような手口がある。
  金銭に困窮して借金を求めながら連帯保証人を用意できない者に対して、最初は話し合いの上で貸そうじゃないかと甘い言葉で誘う。そしてホイホイと乗って来た相手に対し、「一応、証書の体裁を作らねばならない、便宜上、連帯保証人の記名捺印を要するので」と、仮にしかるべき親族や知人の名義を私用し、適当に印鑑を捺させる。
「便宜上のものだから、懇意の口約束みたいなものだから、偽造にはならんのだよ」と気安く話を持ちかけながら、実は法律上有効な証書を作成してしまうのだ。
  借り手にしても「これはマズイんじゃないか」と薄々感づきながらも、ひとつには急を要するため、もうひとつには期限内に返済すれば何も問題は起きないと口八丁に言いくるめられて、まんまと術中に陥るカラクリである。

  期日が来る。そして返済がなければ、彼らはたちまちのうちに牙を剥いて、告訴の意思をチラつかせながら脅すのだ。そうして散々に不当な利息を貪り、債務者の肉が尽きて骨が枯れた後でさえ、その底無しの欲は連帯保証人にまで及び、寝耳に水の強制執行をも加えるのである。
  これを表沙汰にすれば債務者は間違いなく刑法の罪人になってしまう。そんな状況に貶められて恐慌せず、狼狽せず、悩み乱れず、号泣せず、死力を尽くして資金繰りをしない者がどこに居ようか。
  このとき悪魔の力は喉もとを絞め、背中を討つ。その者の生死は全て彼の手中にあって、いつ握りつぶされるか判らぬ運命なのだ。助けを乞うても得られるはずもない。

  雅之もこの罠にかかり、学友の父の名を借りて連帯保証人に私用したのである。
  事態が破綻を迎えるに及んで、不幸にも相知れる学友は折から海外に留学して不在。しかも彼の父である人物に至っては、彼のことなんて知りもしない。それゆえに調停になるはずもなく、彼の行為はついに刑法第百五十九条の問うところとなってしまった。
  法律は鉄腕のごとく雅之を連れ去り、あまつさえ杖を投げ出して涙ながらに縋りつく老母をも道の傍らに蹴り飛ばして一瞥もくれぬ冷徹ぶりである。
  母はどれほど息子に思いを掛けてきたことか。親思いの息子はこの上なく優しい性格で、美しい柏井鈴と婚約し、この秋には入籍。暮れにはヘッドハントされて新たに立ち上げる鉄道会社に好待遇で移る予定だったのに、全ておじゃんになってしまった。立ち交じりたくない国法の罪人になったのである。
  恥辱、憤恨、悲嘆、憂愁。心はいずこへと置き惑い、母はついに発狂してしまった。

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