カンタンに読める!金色夜叉/現代版

狂気と波乱の
舞台の幕が開く

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前編第1章-1-

 舞台の幕開け

  まだ宵のうちであるのに正月の門松が並ぶ門は、どれもこれもしっかり施錠されていた。長くまっすぐ東西に走る大通りは、掃き掃除をしたかのように誰もいない。往来が絶えた中に、車の走るけたたましい音が忙しく聞こえる。あるいは酒を飲み過ぎた年始回りの帰りだろうか。かすかに聞こえてくる獅子舞の太鼓の響きが、正月三が日の終わるのを惜しむかのようだ。正月終了の悲しさから子供たちは、腹を切る思いでいるだろう。

  元日快晴、二日も快晴、三日も快晴と記された日記を汚すかのように、この夕刻から木枯らしが吹きはじめた。
「風よ吹くな、吹くんじゃないよ」と優しくなだめる者もいないので、木枯らしはますます怒って門松の飾り竹を吹き飛ばさんばかり。萎れ枯れた葉をバサバサ鳴らしながら、吠えるように吹きすさび、舞い狂っては引き返し、揉みに揉んでひとり騒ぎまくっている。
  やや曇っていた空は、木枯らしに吹かれて目を覚ましたのだろう。無数の星が瞬き、鋭く冴えた光はいっそう寒さを際立たせる。夜の街は、凍りつこうとしていた。

  しばらく静かな時間が流れ、拍子木の音が遠くから聞こえた。そして聞こえなくなったころ、一点の灯りが見えたかと思えばゆらゆらと街の外れを横切って消えた。再び寒風が星空に吹いた。
  とある路地の銭湯は仕舞い支度を急ぎ、古くなった湯が落ちる下水口からは湯気がもくもくと白い雲を作っている。辺りにぬるさと垢臭さが溢れ漂うところに、ちょうど車がやって来た。勢いよく走って角を曲がったものだから避けることもできず、その臭気の中を駆け抜ける。
「む…臭いな」
車の客が声を発して通り過ぎた跡には、葉巻の吸い殻が赤く煙って捨てられていた。
「こんな早い時間からもう湯を捨てているのか」
「はい。正月は早く閉めるんでございます」
運転手がそう答えた後は言葉は絶え、車はまっしぐらに走った。

夜の街

  乗客の男性はコートの袖をしっかり掴んで、ファーのマフラーに顔をうずめている。灰色の毛皮の敷物に、ボーダー柄の華麗な膝かけを纏い、車に据えられた社旗にはアルファベットのTを二つ組み合わせたマークが描かれていた。
  車はどんどん進み、路地の先を北に折れてやや広い通りに出るや、少し走るとまた西に入った。その筋の南側の中ほど、箕輪(みのわ)と書かれた門灯と門松のあるところに車は引き入れられる。

  玄関の中から灯りが漏れているものの、戸は固く施錠されていたので、運転手は戸をドンドン叩いた。
「ごめんください。ごめんください」
  奥のほうからガヤガヤ声がするのに紛れたのだろう、何の反応もなかったので、運転手はさらに戸をドンドン叩く。すると急ぎ足で人が応対に出てきた。

  髪を結っていて四十歳くらい、背は低くスリムな色白の女性で、茶色の装いに黒のアウターを羽織っている。この家の奥さんだろう。急いで戸を開けるのを待って、男性は悠然と中に入ろうとしたが、玄関中に所狭しと広がった靴という靴が彼の行く手を阻んだ。奥さんはすかさず屈んで靴を並べ、彼のために通路を開く。かくして彼の脱いだ靴だけは、玄関ではなく部屋の中に置かれることになった。

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