カンタンに読める!金色夜叉/現代版

富山が今夜訪ねてきた
その理由とは?

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前編第1章-4-

 密談

  富山のビシッと固めたヘアスタイルは、ホウキのように乱れ、ベルトに垂らしていたゴールドのチェーンも断ち切れ、伸びきってぶらんぶらんと下がっている。その姿を見るや、主人は慌てた顔で、
「どうされたんですか。おや、手から血が出てるじゃないですか」
こりゃ大変だと、彼はすぐにタバコを消してガバッと身を起こした。

「ああ、酷い目に遭った。ああも乱暴じゃどうもならん。武装でもしないと太刀打ちできない。人を馬鹿にして! 頭も二発ほどぶたれたよ」
手の甲の血を吸いながら、富山は不快な表情で席に着いた。海老茶色のラグの傍に暖房器具があり、蒔絵のお膳が据えてあった。主人は手を打ち鳴らして女中を呼び、急いで酒と料理を用意させる。

「それはどうもとんでもないことで…他にどこも怪我はありませんでしたか」
「そんなに怪我ばかりあったら、たまったもんじゃないよ」
主人も思わず苦笑した。
「すぐに絆創膏を差し上げます。なにせ学生ばかりですから、随分血気盛んなのです。わざわざご足労いただいたのに、大変失礼いたしました。
  もう、あちらには出陣しないほうがよろしいかと。何もございませんが、ここでどうぞごゆっくり」
「いや、もう一度行ってみようと思うんだ」
「ええっ? またおいでになりますか」

  無言で笑みを浮かべる富山の頬は、ますます横に広がる。すぐにその真意を悟って破顔した主人の目は、ススキの葉で切った傷のように、あるのかないのか判らないほど細くなった。
「では、気に入った娘が?」
富山はますますニヤニヤする。
「でしょうなあ、そうでしょうなあ」
「何故そう思う?」
「何故もなにもありませんよ。誰だってそう感じて当然です」
  富山は頷きつつ、
「そうだろうね」
「あの娘は良いでしょう」
「うん、いいね」
「まずは、そういうことで酒でも一杯どうぞ…
難し屋のあなたが良いと仰るのですから、よほどの優れた娘だと言うことでしょう。なかなかいないですからね」

  そこへあたふたと入って来た奥さんが思いもかけず富山を見て、
「あら、こちらにいらっしゃったのですか」
彼女は先ほどからキッチンへ詰めて、女中たちにお膳立ての指図をしていたのだった。
「こてんぱんに負けて逃げて来たのですよ」
「それはよくぞ逃げて来られました」
例の歪んだ口をすぼめて奥さんは空々しく笑ったが、彼のベルトのチェーンが断ち切れているのを見咎めると、慌て驚いた。純金製だからだ。富山はこともなさげに、
「いや、いいんですよ」
「良くはございません。純金じゃないですか」
「なあに、構わないんです」
返事を聞き終わらないうちに、奥さんは広間のほうへ出て行く。

「それで…あの娘はどういう生まれなのだい」
「そうですねえ。悪いということはありませんが…」
「が? どうしたのさ」
「が、たいしたことはありません」
「そりゃまあそうだろう。しかし、おおよそどんな家庭なのかい?」
「もともとは官僚だったようですが、今では不動産や家賃収入で暮らしているようです。それなりに金銭もあるようで、鴫沢隆三(しぎさわりゅうぞう)と言って、すぐ隣町に住んでますが、手堅くこじんまりと過ごしているようで」
「ほう。しれたものだね」
顎を撫でるその手の指には、例のダイヤがキラリと光っていた。

顎を撫でる

「それでもいいさ。しかし、嫁にくれるだろうか。跡取り娘だったりはしないかい」
「はい。確か一人娘だったと」
「それじゃ困るなあ」
「私は詳しく存じませんので、ちょっと訊いてみましょう」

  ほどなく奥さんはちぎれたチェーンの輪を探し出して戻って来たのだが、誰のいたずらなのか判らないけれど既に原型をとどめていなかった。主人は彼女にお宮の家の様子を尋ね、一通りの回答は得たが、それでも娘のことはあまり知らないと言うことだった。あとでこちらに招いて話でも訊いてみようという結論になり、夫妻はしきりに客人に酒を勧める。

  富山唯継が今夜ここに来たのは、お年賀のためではない。カルタ遊びのためでもない。娘が大勢集まると聞いて、嫁を選ぼうとしての来訪だったのだ。
  彼はおととしの冬、イギリスから帰国するとすぐに四方八方に手を尽くして嫁を探し求めたが、理想がやたら高く、二十余件もの縁談は全て破談にしてしまった。それでも今日まであくせくと嫁を探してきたのだ。

  当時、急がせて建てた芝(しば・東京都港区)の新邸も、未だ住まう気配はない。日が経つにつれ、陽に焼けて黒くなり、あるところは雨に朽ちてしまっていた。薄暗い部屋で留守を守る老夫婦だけが、寂しげに昔語りをしてるありさまだったのである。

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