カンタンに読める!金色夜叉/現代版

成金男・富山のダイヤ
羨望と嫉妬は戦争に発展?

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前編第1章-3-

 ダイヤの仕返し

「何だ、あれは?」
例の二人のうちの片方が憎らしげにつぶやく。
「ヤな奴!」
唾を吐くように言って学生はわざと顔を背けた。
「お俊(しゅん)、ちょっと」
奥さんが群衆の中から、娘を手招きする。お俊は両親が男性を伴っているのを見ると、慌てて起き上がり駆け寄った。美人だとは言えないが、愛嬌があって父親によく似ている。髪をアップにして、淡紅色のダボッとした上着を羽織っていた。顔を赤らめつつ、男性の前で慇懃に深く礼をする。男性はわずかに会釈しただけだった。

「どうぞこちらへ」
娘は案内しようと待ち構えるが、男性はそう気乗りしない感じで頷く。奥さんが歪んだ口を怪しげに動かして、
「あの、見事なお年玉をいただいたんだよ」
お俊は再び頭を下げた。男性は笑みを作って目礼する。
「さあ、いらっしゃいまし」

  主人が勧める傍から奥さんがお俊を促し、お俊は男性を案内して、客間の床柱の前の暖かい場所へ連れて行った。奥さんもそこまで一緒に付いて行った。
  この男性をここまで丁重に扱う不自然さを、二人は訝しげに思い、男性が座るまで一挙手一投足も見逃さない。

  彼は左半身を客人側に向けて歩いて行ったのだが、その指には輝く物体が放つただものではない強い光があった。灯りに照らされて乱反射し、形すらはっきり掴めない。眼を射るかのような眩しさに、皆は半ば呆れるほど動揺した。夜空で最も明るい星は我が手にあり、と言わんばかりに、男性は彼らが未だかつて見たこともない大きさのダイヤモンドを飾ったゴールドのリングを填めていたのだ。
  お俊はカルタ取りの席に戻ると同時に、そっと隣の娘の膝をつついて早口に囁いた。娘は素早く顔を上げて男性を見たが、人となり以上にその指に輝く物の異常な大きさに驚いたようだ。
「まあ、あの指輪! ダイヤ?」
「そうよ」
「大きいのねー」
「六百万だって」
  お俊の説明を聞いた娘は、身体の毛が逆立つ気分になった。
「うわっ! 凄い」

  小魚の目ほどの大きさの真珠の指輪でさえ、この何年も欲しい欲しいと願いながら未だ手に入れられない娘の胸に、たちまち妄想が押し寄せる。すると、茫然と我を失っている間に光の速さで隣から腕が伸び、娘の鼻先にある一枚のカルタを引きさらってしまった。
「どうしたっていうの?」
お俊はイラッとして娘の横膝を続けざまに叩いた。
「大丈夫大丈夫、もう油断しないから」

  娘はようやく空想の夢から覚めて身の程を弁えたようだが、ダイヤの強い光に眩んだ心は、幾らか知覚を消失したようで、あれだけのカルタの腕前がみるみるうちにグダグダに。この時から娘は、頼りがいのない味方になり下がってしまったのである。

  こうして彼から彼女へ、あの人からこの人へと伝播しては、
「ダイヤモンド!」
「うん、ダイヤだ」
「ダイヤ?」
「なるほど、ダイヤか!」
「わあ!ダイヤよ!」
「あれがダイヤ?」
「見ろよ、ダイヤだぜ」
「あら、ダイヤですって?」
「凄いダイヤだ」
「ダイヤがキラキラ光ってる~」
「六百万のダイヤ…」
  瞬く間に三十余人は、口々に男性の富を言い合うのだった。当の男性は、人々が順繰りに自分の方を眺めるのを見ては、腕組みしながら葉巻をカッコ良さげに構え、やや気だるそうに床柱にもたれていた。そして眼鏡越しに下界を見渡すかのように目を配っていたのである。

ダイヤモンド

  こう目立つ人の名は、誰もが聞かずにはおれない。かくして、お俊の口からその名は漏れたのである。彼は富山唯継(とみやまただつぐ)と言って、成り上がりながらも台東区では名を馳せる資産家の跡継ぎだった。同じ区にある富山銀行は彼の父が創設したもので、区会議員の中にも富山重平(じゅうへい)の名を見ることができる。

  お宮の名前が男たちに持て囃されるように、富山だという彼の名もすぐさま女たちの口ぐちに上った。一度はこの男と付き合って、世にも高価な宝石に拝謁する栄誉を得たいものだと、心のうちで願わない女は殆どいない。近づけるものならば、目で比類なく楽しく観賞するに留まらず、鼻までもスミレどころかもっと素晴らしい香りを愉しむ幸いを受けるであろう。

  翻って、男どもは荒んだ気持ちになった。女たちがこぞってダイヤに心惹かれるものだから、妬ましいやら、浅ましいやらで、多少でも興ざめしないはずがない。ただひとり、お宮だけは騒ぐ様子がなかった。涼しげなまなざしはあのダイヤと光を競うかのように嗜み深く、心ざまもゆったり奥床しく振舞っていた。崇拝者はますます喜んで、俺たちが慕うだけの価値があると、こうなればお宮を奉じて尽くし、美と富の勝負の一騎打ちで富山の憎い面の皮をひん剥いてやろうじゃないかと、手ぐすね引いている。お宮と富山の勢いは、まるで太陽と月を並べ懸けたかのようであった。

  カルタ取りでお宮が誰とグループを組み、富山が誰と組むかが、皆が一番懸念することだった。クジの結果は驚くべき予想外で、皆が同じグループを狙った紳士と美女は、他の3人とともに同じ組になってしまった。
  おかげで、はじめは二手に分かれて輪を作っていたことも忘れ去られ、合併してひとつの大きな輪ができた。しかも富山とお宮は隣り合わせに座ったものだから、昼と夜が同時に来たかのように皆はうろたえ騒ぐ。

  たちまちその隣に「社会党」と名乗るペアが現れた。社会党の主義主張は不平を言うこととで、目的は破壊だった。無理矢理にでも腕尽くで、そのグループの幸福と平穏を妨害しようとするありさまだ。
  さらにその正面のグループは一人の女性に内側の守りを任せ、屈強の男四人が左右に分かれて遠征軍を結成。左側を攻めるのが「狼藉組」、右が「蹂躙隊」と名乗っていたが、その実態はダイヤ男の鼻をへし折ろうと必死になってるに過ぎない。

  予想通りと言うか、この組はボロ負けし、傍若無人な富山もさすがにつまらなそうな顔をした。お宮も顔を赤らめている。面目を失い、じっと座っているのに耐えきれなかったのか、富山の姿はいつの間にか無くなっていた。男たちはバンザイを唱えたけれど、女の中にはがっかりした者も多い。

  散々にいたぶられ、狼藉され、蹂躙された富山は、余りもの非文明的なこのゲームに恐れをなして、そっと主人の居るリビングに逃げ戻ったのである。

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