カンタンに読める!金色夜叉/現代版

突如湧いたお宮の悩み
何も知らない貫一は…

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前編第5章-1-

 悩めるお宮

  ある日、カルタの会を開いた箕輪氏の奥さんが、思いもかけず鴫沢の家を訪ねてきた。箕輪氏の娘のお俊とお宮は学校の同級生であったから、よく行き来があったけれど、これまで家同士の交際はなかったのにだ。
  彼女たちが学校に通っていた頃でさえ、親たちは互いを知らずに過ごして来たのに、まして今となっては二人の行き来もだんだん少なくなっている。そんな時に母親が訪ねてくるというのは、どういう理由なのかと、お宮も両親も不思議に感じた。

  およそ三時間後、彼女は帰って行った。
  彼女の来訪を不思議に思っていた鴫沢の奥さんは、彼女が来たことよりも、その来訪の目的が想像を越えたものであったことに驚かされた。貫一はこの時不在だったので、この珍しい客の来訪を知らない。お宮も敢えてそれを告げず、二日過ぎ、三日過ぎてと、時間が流れたのである。

  その日を境にお宮は食が細くなり、あまり眠れなくなってしまった。貫一はまだ何も知らず、お宮も一向に告げようとしない。この間にも、鴫沢の両親は何度となく話し合ってはいたが、結論を出せずにいたのだ。

  陰で発生することや、見えやしない人の心の内に浮かぶできごとを貫一が知るよしもないが、片時も視界から外した例しがないお宮の様子がいつもと違うのに気付くことは、そう難しいことではない。顔色は光をやや失ったかのようで、振る舞いも元気がなく、笑顔でさえ湿っぽかったのだから。

  お宮専用の部屋と言うほどではないが、彼女のクローゼットや日用品などを置いた小さな部屋があった。この部屋にはコタツがあったので、手持ちぶさたな家人がやってきては、入れ代わり立ち代わり温まっていくのだ。
  お宮はいつもここに居て、裁縫をしていた。退屈な時は琴だってここで弾いていたのである。彼女が活けたのであろうネコヤナギは、根元が緩んで枝が傾いてしまっている。その竹製の花器は水に埃を浮かべて、サイドテーブルの脇に鎮座していた。
  庭に面した出窓の明かりに紙を広げて、お宮は膝の上に赤い布を載せていたが、針も持たず物憂げに後ろにもたれて寄り掛かっている。

  食欲がなくなって眠れなくなってからというもの、彼女はこの部屋で深く物思いに耽るようになってしまったのである。両親は事情を知っているだけに、この様子を怪しむことなく、ただ彼女のなすがままに任せていた。

赤い布

  この日貫一は始業式だけだったので、早々と帰って来た。下のリビングに誰もいない。コタツがある部屋からお宮の咳の音がしたと思ったらそのまま無音になったので、帰ったことに気付いてないんだなと貫一は察し、忍び足で近寄って行く。
  引き戸のわずかに開いている隙間から覗いてみれば、お宮はコタツに寄り掛かってガラス窓を眺めては伏し目になり、また胸が痛むかのように空を仰いでは溜息を漏らしていた。そして物音を聞き澄ますように美しい目を見張って、今度はなにやら考えごとをしているらしい。
  覗かれていると気付いてないので、彼女は口に出して訴えんばかりに心の苦しみを表情に露わにしていたのである。

  貫一は怪しみながらも息を潜めて、さらに彼女が何をするのかを見届ける。お宮はしばらくしてコタツに入ったが、天板に突っ伏してしまった。
  柱に身を寄せ、身体を斜めにして中を窺っていた貫一は、眉をひそめて怪訝な顔をした。彼女は何があって、あんなに悩み抜いているのだろう。それほどまでの困り事を、なぜ自分に打ち明けてくれないのだろう。その理由とやらが存在することを思いもよらなかったし、お宮に悩み事があったことすら彼には信じられなかった。

  こう考えを巡らせる彼の顔も、自ずから俯き加減になっていく。話を聞いてみないと真実は判らないぞと思い定めて、貫一は再び中を覗いてみた。まだ突っ伏している。バレッタは頭から零れ落ちていた。いつの間に落ちたのだろう。

  人の気配に驚いてお宮が顔を上げた時、貫一は既にすぐ隣にいた。彼女は慌てて落ち込んでいた様子を隠す。
「あー、ビックリした。いつ帰って来たの?」
「今帰ったんだ」
「そう。ちっとも気付かなかった」
  お宮は自身の顔をまじまじと見つめられ、眩がって、
「どうしてそんなに見るの? イヤよもう」
  けれども彼はなお目を逸らさない。宮はわざとそっぽを向いて、端切れ入れの中の布を手でガサゴソと漁った。
「宮さん、どうかしたの? ん? どこか具合でも悪いのかい」
「何でもないわ。どうして?」
  そう言いながらお宮は、ますます忙しげに布を漁り探す。

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