カンタンに読める!金色夜叉/現代版

悩めるお宮の前に
登場した男とは?

目次 > 前編 > 第7章 1 / 2 / 3

前編第7章-1-

 熱海に現れた男

  熱海は東京に比べて暖かく、気温も十何度かあった。ようやく一月も半ばを過ぎたばかりだというのに、梅林の花は二千本もの枝に咲き乱れ、太陽が注ぐ日射しはきらきらと人の顔を照らしている。小道に漂う花の香りは、凝固して紐のように結んでしまえるのではないかと思えるほどに強い。

  梅のほかに木は全く無く、ところどころ、石が低く横たわっているだけだ。地面に若草色のカーペットを敷いたような芝生の園内を、クリスタルを砕いて散らばせたか、シルクが裂けて翻ったかのような急流が貫いている。
  背後の松や杉の木立の緑はうららかに晴れた空に刺さり、天頂で物憂げに浮かぶ雲はうたた寝でもしているかのよう。無風に関わらず花はしきりに散っていく。散る花は軽く舞い、ウグイスは競うようにさえずっていた。

  お宮が母親と連れ立って園内に入って来た。ふたりは橋を渡り、ベンチがある木の下に向かって、ゆっくりと歩いていた。お宮の病がまだ治っていないのであろうか、ナチュラルメイクの顔色は散ってしまった花弁のように色褪せている。その歩みはだるく、顔がついつい下ばかり向いてしまうのを、お宮は思い出しては頭をもたげて花の枝を眺めるのであった。彼女は考え事をするとき、唇を噛む癖がある。今もしきりに唇を噛んでいたのだ。

「お母さん、どうしようか…」
  たわわに咲いた枝を飽きずに見上げていた母の目は、この時ようやく娘に注がれた。
「どうしようって、お宮の心ひとつなんだよ。初めにお宮が嫁に行きたいって言うから、こういう話にしたんじゃないかい。それを今更…」
「それはそうだけれど、どうも貫一さんのことが気になって。お父さんはもう貫一さんに話をしたと思う? ねえ、お母さん」
「ええ。もうしたでしょうね」
  お宮はまた唇を噛んだ。

「私は…お母さん…貫一さんに合わせる顔がないわ。だからもし、嫁に行くなら、もう貫一さんと会わずに、スッと行ってしまいたいの。そういう成り行きにしてほしいんだけど…
  ええ…私はもう会わずに行くわ」
  声はか細く、美しい瞳は潤んでいた。その涙をぬぐうハンカチが、二度と会わぬと決めた者の形見になることを、お宮は忘れやしないだろう。

「お宮がそれほどに思うなら、どうして自分から嫁に行きたいだなんて言ったの? そういつまでも気が迷っていちゃダメでしょうに。一日経てば一日分だけ話が進むのだから、ホントきっぱりしっかり決断しなきゃいけないのよ。お宮が嫌なものを無理に行かせようってわけじゃないんだから、断るんなら早く断らないと。それにしても、今になって断るって言ってもねえ…」
「いいの。私は行くって決めたんだもの。でも貫一さんのことを考えると情けなくなって…」

  貫一のことは母親にとっても苦渋の選択だったゆえに、娘がその名を口にするたびに、なにやら犯した罪を音読される気分になってしまう。娘の将来を思えばこの縁談を喜ぶべきだと思いつつも、さすがにおおっぴらに歓喜することもできないのであった。彼女は強いてお宮を慰めようと努めた。お宮を慰めつつ、自分に言い聞かせるかのように。

「お父さんから話があって、貫一さんがそれで納得すれば済むことでしょう。お宮があちらに嫁いでからも末長く貫一さんの力になってあげれば、お互いに幸せになるんだから、そこを考えれば貫一さんだって…
  それに男ってのは思い切りが良いものよ。心配することはないの。これっきり会わずに嫁ぐなんて、それは却って良くないから、やっぱり会ってちゃんと話をして、そうして清く別れるのがいいのよ。この先だって、兄妹として付き合って行かなくちゃいけないんだから。
  いずれ今日か明日には連絡が来るし、様子が判るだろうから、そうしたら家に帰って、すぐに嫁入りの支度に掛からないと」

  お宮はベンチに寄り掛かり、半分は聴いているようで、もう半分は考え事をしながら、膝の上に散り落ちてくる花弁を拾っては、唇を噛む代わりにしきりに裂いた。ウグイスの鳴き声の合間も、小川が流れる音は止むことがない。
  お宮がなんとなく顔を上げたところ、少し先の木立ちに隠れて男性がそぞろ歩きしているのが見えた。ハッと察知した彼女は、生垣のような木立や、カーテンのような花の枝に遮られる視界の隙間を縫って、しばらくその影を目で追っていたが、とうとう確信を得て、慌てて母親に囁いた。そしてベンチから立ち上がると、五歩六歩と男のほうへ向かって行った。男もお宮の姿を見つけ、声を掛ける。
「ここにいらっしゃったのですか」

梅の花

  その声は静かな梅林を動かすかのように響き渡った。お宮は声を聞くと同時に、恐れを抱いたかのようにベンチの端に座りすくんだ。
「はい。たった今来たところなんです。よくお越しくださいましたこと」
  母親はこう挨拶しながら彼を迎えて立つ。お宮は見向きもせずに、彼が急ぎ足に近寄る音を聞いていた。
  母子の前に現れた若い男性が一体誰なのか、説明するまでもない。びっくりするほど大きなダイヤモンドの指輪を輝かせてるんだから。ステッキだろうか、持ち手は緑色の獅子の頭を彫った鉱石に、象牙のようにつややかな本体の杖状のもので、梅の低い枝の花を打ち払い落しながら近づいてきた。
「お宅へ伺ったところ、ここにいらっしゃるというので、追い掛けてきたわけです。暑いですね」

  お宮はようやく顔を上げ、しとやかに立って恭しく礼をする。富山唯継はたいそう嬉しそうな目をして挨拶を受けながらも、あくまでも驕(おご)り高ぶることを忘れないありさまだった。その張った頬骨と、「へ」の字に結んだ薄唇と、目立つ金縁の眼鏡が、彼の尊大な振る舞いの少なからざるスパイスになっていることは疑いようもない。
「おや、そうでございましたか。それはまあ。あまりに良い天気でございますので、ぶらぶらと歩いておりました。本当に今日は暑いくらいですね。まあ、こちらへお掛けください」
  母親がベンチを手で払ったので、お宮は一歩下がって傍らに佇んでいた。

続きを読む