カンタンに読める!金色夜叉/現代版

お宮を誘う唯継と
そこに現れた男

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前編第7章-3-

 二人目の男

  また誰か人が来る気配がするのに気付いたお宮は、周囲を見回してみたものの、姿が見えない。ただ靴の音は聞こえてくる。梅を観る人だろうか、そうじゃないのか、用事でもあるかのように忙しなく踏み立てる足音だった。
「じゃあ、お宮、お伴をしなさいな」
「さあ行きましょう。ちょっとそこまでの散歩です」
  お宮は小さな声で、
「お母さんも一緒に来てちょうだい」
「私がかい? お宮がお伴なさいな」
  母親同伴では全然雰囲気が出ない、ちっとも素敵じゃないと思う唯継は、何が何でもそれだけは防ごうと、
「いや、お母さんには却ってご迷惑でしょう。道が良くないですから、お母さんにはとても歩けますまい。実際、あなたにもお勧めできる道ではないのですが、その迷惑の程度は知れたものです。何も遠くまで行くのではないのだから、お母さんが一緒ではなくても良いではありませんか。ね?
  私がせっかく思い立ったんですから、ちょっとそこまでで結構ですので付き合ってくださいよ。嫌になったならすぐ帰ります。ね? それはもうなかなかの良い景色ですから、まあ、私に騙されたと思って来てみてください。ね?」

  このとき、忙しげに聞こえていた靴音がしなくなった。人がいなくなったからではない。十数メートル先の木陰に足を止めて、そっと様子を窺っていたのだが、この三人は気付いていなかった。
  じっと立っていたその男は、黒いジャケットに焦げ茶のコートを着て、肩に古びたバッグを掛けていた。間貫一だ。
  再び靴音が高く響いた。突然で、しかもすぐ近くで足音がするものだから、三人は少し驚いて、そこでようやく音がする方に目を向ける。
  花弁が散りかかる中を進んできた大学院生は帽子を脱いだ。
「小母さん、来ましたよ」

  母子は動転して、気を失わんばかりだった。母親は物を見る力もなく呆れ果てた目を、むなしく見張って、しばし石のように動かない。お宮に至っては、いっそ生きるよりもこの瞬間に消えてしまって土に還ってしまった方が心安らかだと思いながら、その淡く白みを帯びた唇を噛みちぎるんじゃないかというほどに、噛んで噛んで噛み続けていた。
  おそらく彼女たちの驚きと恐怖は、殺したはずの人間が今生き返って会いに戻ってきたかのようなものだろう。気もそぞろに母親はうわごとのように言葉を継いだ。
「あら、来たの」

  お宮は少しでも自身の姿を彼の目に触れさせまいと願うかのように、木陰に身を寄せ、過呼吸ぎみの吐息を聞かれまいとハンカチで口元を覆っていた。見ても苦しいし、見なくても辛い貫一の顔を、伏し目がちに窺っては、また唯継の顔色をも気にしている。
  唯継は彼女たちの心にそんな大波乱があろうとは知らず、聞き及んでいた鴫沢の居候が来たなと、例のダイヤの手をこれ見よがしにステッキを立てて、偉そうにふんぞり返っている。

  貫一は今回の詳細を知っているし、そこにいる男が唯継であることも知っていた。既に今この場で起きている状況をも知らないわけではなかったが、言うべきことは後でじっくり言えばいい、今は顔に出すまいと、張り裂けそうな無念の思いをぐっと堪えて、苦しい笑顔を作った。
「宮さんの病気はどんな具合ですか」
  お宮は堪りかねて密かにハンカチを噛みしめた。

「ああ、だいぶ良いので、もう二・三日のうちには帰ろうと思って。お前さんもよく来ましたね。大学院のほうは?」
「校舎の工事があって、今日半日と明日、明後日は休講になったものですから」
「おや、そうなの」
  唯継と貫一に挟まれた母の絶体絶命は、まるで野原の古井戸に落ちた人が、沈みもせず、登ることもできず、危うく掴んだ命綱代わりの草の根を、ちょろちょろやって来たネズミが噛んでいる状況に遭うというたとえ話によく似ている。どうするべきか…おそれながら、あるいは戸惑いながらも、ついには逃れられない運命だと悟って、母親はようやく決心した。

帽子姿で眺める男

「ちょうど宅から人が参りましたものですから、大変な身勝手を申し上げますが、私どもはこれからホテルに戻ります。いずれ後ほど、お伺いいたしますので…」
「ははあ、それではですね、明日の朝はご一緒に帰ることができそうな感じですね」
「はい。話の流れによりましては、そのようにできるかもしれませんので、どちらにせよ後ほどお伺いします…」
「なるほど。それなら残念ではありますが、私も散歩は取りやめにしましょう。帰って待ってますので、あとできっとおいで下さい。いいですか、お宮さん、じゃあ必ずいらして下さい。本当に今日は残念です」

  唯継は立ち去る際に、更にお宮のすぐそばまで近寄って告げた。
「お宮さん、絶対来てくださいよ」
  貫一は瞬きもせず凝視している。お宮は窮して、彼に会釈すらできなかった。若い女の子の気恥ずかしさから来ているのだろうとばかり思っていた唯継は、ますます寄り添って猫なで声で囁く。
「いいですか? 絶対ですよ。待っていますからね」

  貫一の眼は燃えるばかりの色になり、お宮の横顔を睨みつけた。お宮は恐れて脇目も振らずにいたが、鬼の形相で睨まれているに違いないと確信し、ひとり震えている。それでも唯継が次に何を口走るやらと考えて、とにかくこの場を言い繕った。

  母子にとっては幸いなことに、彼は貫一に関しては何の疑いの目を持っていなかった。ただ、あくまでも愛しいお宮に心奪われたまま去って行ったのである。
  その後ろ姿を射抜くかのように見つめていた貫一は、我を忘れたかのようにしばらく佇んでいた。母子は貫一の心を計りかねて、言葉も出てこない。息さえ凍り固まったかのようで、ただ急流の水の音のみがやかましく聞こえるだけだった。

  やがて振りかえった貫一は、ただならないほど血の色が失せた顔に、精一杯振り絞って取り繕ったわずかな笑みを浮かべていた。
「宮さん、今のヤツはこの間のカルタの会に来ていたダイヤ男だね」
  お宮は俯いて唇を噛んだ。母親は聞かぬふりをして、折しも鳴いていたウグイスがいる木の間を眺める。貫一はこの様子を見て、更に嘲笑した。
「夜見た時はそれほどでもなかったが、昼間見ると実にキザなヤツだね。しかもどうだ、あの威張り腐った顔は!」
「貫一さん」
  母親はにわかに呼びかけた。
「はい」
「お前さん、小父さんから話は聞いたのですか。今度の話を」
「はい」
「ああ、それなら良いけれど。普段の貫一さんらしくもない、そんなふうに人の悪口を言うものではありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りましょう。お前さんも疲れたでしょうし、温泉にでも浸かって。それにまだ昼ごはんも済ませてないんでしょう?」
「いえ。新幹線の中で駅弁を食べました」
  三人はともに歩き始めた。貫一はコートの肩を払われて、後ろを振り向いた。お宮と目が合う。
「そこに花が付いていたから、取ったのよ」
「それは、どうもありがとう!!!」

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