カンタンに読める!金色夜叉/現代版

お峯に頼まれ探偵をする
貫一と謎の貴婦人

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中編第4章-1-

 貴婦人の中の貴婦人

  貫一はすぐにタクシーを飛ばして、赤坂の畔柳のもとに赴いた。彼の家は田鶴見のダンナの敷地内にあり、裏門から出入りできるよう本邸の脇に建っている。横長の広いスペースをムクゲの生垣で囲い、昔風の情緒ある造りの二階建て。家の構えは慎ましく目立たないようではあるが、材木は良い物を使っている。本邸の改築の際に、旧材を拝領して使ったのだそうだ。
  貫一も彼の雇い主もこの家へ公然の出入りを憚られる身であったため、いつも玄関脇の勝手口から訪問していた。彼は勝手口に立ち寄ったが、鰐淵の履物は見当たらない。早くも帰ってしまったか、来なかったのか、もしくはまだ来ていないだけなのか、とにもかくにもお峯が言ったことはハズレであった。それでも直ちにこれだけをもってして結論を出してはいけないと思いつつ、人を呼ぶ声を発した。
  応答はない。再度声を掛けると聞きなれた主人の妻の声がして、しきりに女中の名を呼んでいる。それでも返答がなかったので、しばらくして妻自らが出てきた。
「おや、さあ、どうぞお上がりくださいな。ちょうど良いところへいらっしゃいましたね」

  彼女は目だけがやたら大きくて、病気がちで痩せ衰えた身体は蝋燭の灯心のようだった。見るからに痛々しいが、声ははっきりとしていて張りがある。いったいどこから声を出しているのだろうと、最初は目で驚き、また耳で聞いて驚いたものだ。まあ、一種の化け物のようである。年齢は五十ほどで、白髪も目立ち、主人よりも年上。
  貫一は恭しく礼をもって挨拶する。
「はい。今日は急ぎますので、これで失礼致します。鰐淵は今朝、こちらへお伺い致しましたでしょうか?」
「いいえ。いらっしゃいませんよ。ただ、実はね、ちょっとお話したいことがあって、お目にかかりたいと申していたところだったんです。ちょうど今、本邸へ出ておりますので、ちょっと呼びに遣りますから、しばらくお上がりになって」

  言われるがままに客間に通されたので、貫一は端近に控える。彼女は庭にいた女中を呼び立てて、すぐに主人のもとへ向かわせた。灰皿と番茶を出しただけで物置部屋に入ってしまった妻は、再び出てくる気配がない。この間、貫一はどのようにしてこの探偵案件を処理したものかと思案していたのである。
  やや時間があって、女中が息を切らせて帰って来る気配がしたが、やがて妻が出てきて例の声で言葉を発した。
「ええと、ちょっと今、手が離せないようで。本邸にほうに居ますから、どうかあちらへご足労ください。すぐそこですから。女中に案内させます――豊(とよ)!」

  挨拶をして戸口を出てみると、勝手口の垣根のそばに二十歳くらいで物知り顔の女中が貫一を待っている。後ろ手でエプロンの乱れを直しつつ、彼女は彼を案内した。垣根に沿って曲がると、玉砂利を敷いた小径があって、そこを抜けると田鶴見のダンナの本邸なのだ。
  三棟も並んだ倉の背後に伸びる、高い桐の木を植え連ねた小奇麗に掃き清められた通路の突き当たりには、板塀を巡らせた四方下屋造り(しほうげやづくり・関東地方西南部にみられる民家形式の一つ)。その換気口からはせわしなく蒸気が昇っている。折しも仕出し料亭の料理が運ばれて、勝手口から入って行った。
  貫一もここから入った。よそながら通り過ぎるキッチンには、酒の香りやら、煮物の匂いやらが漂い、奥からは絶えず人が通いひしめいている。来客だろうかと思いながら、貫一は畔柳が詰めている部屋に導かれた。

  畔柳元衛の娘・静緒(しずお)は、普段、邸内で家事手伝いをしている。今日は特に女性客の接待に従事し、髪を束ねて、普段より着飾り、客のそばを離れず、粗相せぬように振舞っていた。
  邸内を見たいという客の要望があり、彼女はまずは洋館の三階へ客人を案内した。螺旋階段の半ばを昇り進みながら、彼女はその客がどれほどの貴婦人であるかを見定めていた。
  アップにした髪はカツラなのかしらと見紛うほどに濃い黒髪。珊瑚を纏った髪留めのワンポイントに、艶やかなうなじは類まれなほどに美しい。パープルグレイの皺加工されたブラウスに、黒がかったイエローグリーンのカーディガンドレス。淡い色のストッキングが歩くたびにドレスの裾から零れるように見え、オープンバックパンプスはサザンカの花が開いているかのような気持ちにさせてくれる。

  この麗しい姿を見返りがちに、静緒は壁際に寄って二、三段ほど先を昇っていた。客人は俯きながら昇っていたので、髪留めが非常によく見える。けれどもそれに目を奪われて、静緒は一段足を踏み外してしまい、凄まじい音とともに倒れそうになってしまった。幸い怪我はなかったが、彼女は自身の怪我よりも大切な客を驚かせてしまった失態を恥じ、それを隠しきることもできなかったのである。
「どうもとんだ粗相を致しまして…」
「いいえ。あなた、本当にどこも痛くないのですか?」
「はい。さぞ驚きましたよね。申し訳ありません」

螺旋階段

  薄氷を踏む思いでさらに階段を昇る静緒の着衣が乱れているのを、客人は見止める。
「ちょっと待って」
  客が進み寄って乱れを直そうとするので、ようやく平静を取り戻していた静緒は慌て驚いて恐縮した。
「あ、恐れ入ります」
「良いのですよ。さあ、じっとしていて」
「いや、本当に申し訳ないですから」
  抗弁できず、結局貴婦人の手を煩わせた彼女の心は、溢れるほどの感謝の気持ちが湧き、続いてこの優しさが桜の花の香りのようにまで思えたのである。
  彼女は女性の教訓としてしばしば父に聞かされていた「色とりどりの服で身を着飾っていても、それが自身を飾るものではない。身をしっかりと保ち、従順に生きることが大事なのだ」との言葉にぴったり合致したこの貴婦人の振舞いこそ、見た目を誇るのではなくその教えのままの姿であろうと感じた。素晴らしい人に遭うことができたと、したたかにも思っていたようだ。

  三階に到着すると、静緒は北西の窓へ寄って行った。甲斐甲斐しくグリーンのカーテンを束ね、ガラス窓を開ける。
「どうぞこちらへいらしてください。ここが一番見晴らしが良いのですよ」
「まあ、良い景色ね! 富士山もよく晴れていて見えるんじゃないかしら。あら? キンモクセイの香りが。お屋敷にありますの?」
  貴婦人はこの秋晴れの朗らかな陽気を心行くまで堪能し、夢でも見ているかのような面持ちで佇んでいた。窓からは争うように日差しが射し入り、日影は斜めに彼女の姿を照らす。胸元の真珠は燃えるように照り輝いた。塵ひとつ許さない澄みに澄み切った景色の中に立つ彼女の容姿は清らかに鮮やかに、まるで玉のように光る壺に白い花を挿したかの風情があったのである。静緒は女ながらもこの貴婦人に見とれて、不束にも眺め入っていた。

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