カンタンに読める!金色夜叉/現代版

貫一の姿を見つけた貴婦人
彼女が心掻き乱された理由

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中編第4章-2-

 レンズ越しの再会

  貴婦人の目は爽やかで情け深さが滴るほどに籠り、その眉は理想的な美の形を描き、その小さな口元は香り立つようで、その鼻は比類ないほどによく整っていた。肌はきめ細かく光さえ帯びていて、その色は透きとおるほどに白い。難点を挙げるならば、髪が濃く艶やかで頭が重いのではないかと思えるほどに束ねられていたが、生え際が少し乱れているのと、立ち姿こそ風にそよいで折れそうにない感じだが、顔が痩せているために自ずから憂いを含んだ底寂しさが漂い、首が細くて折れてしまいそうに見える点である。
  それでもここまで何もかも揃った美女はかつて見たことがないと、静緒は心底動揺していた。階段を踏み外した粗相は早くも忘れ、美貌を盗み取ろうかと狙うように流し目で見据えて我を失った顔は、なんとも間抜け面。普段はそこそこの美人で通っている静緒だが、草の花が大した香りを放たないように、この貴婦人の横に立つと見劣りすること甚だしいものがある。
  彼女は自分の間抜けさにも気付かず、ただただ貴婦人のことを考えていた。まったくこの貴婦人なら、ゴールドの時計を装い、パールのブローチを付け、全ての指にリングをはめてリムジンから降りてきても何ら引けを取らないだろう。女性が持つ美徳を何ひとつ欠けることなく、このあでやかな姿で生まれついていて、しかも富豪だ。天の恵みと世の幸を併せて享受していて、これほどの幸福の極致に相当する人が他にいるものだろうか。
  美しい人は貧しさから売らざるを得ない。裕福な人は醜さから買わざるを得ない。両方を得ることは叶わない世の習いなのに、女性ながらもこのように生まれ出ると、その幸福は男性のそれよりも強大だ。
  とまあ、若い女ゆえに羨望の気持ちは強いものの、嫉妬心には至らず、静緒は心からその貴婦人を畏敬していた。

  静緒は貴婦人の美貌に心奪われ、接待のために携帯していた双眼鏡を出すのを忘れてしまっていた。この双眼鏡は田鶴見のダンナがフランスから持ち帰った名品であり、ようやくその存在に気付いた彼女はいそいそと取り出して貴婦人に勧める。大きさは掌に隠れてしまうほどしかないが、非常に遠くまで見ることができた。筒はミルキーホワイトの石で造られており、小さな金細工の金具が添えられている。
  双眼鏡はすぐさま貴婦人の手に渡り、時間を忘れて覗き楽しんだのだが、肉眼では見えぬ遥か遠くは南も北も眺めつくしてしまった。彼女はこの双眼鏡の性能にただならず驚いた様子だ。
「あそこに遠く、ほんの爪楊枝ほどの棒が見えるでしょう? あれは旗ですね。ブルーに赤の縞模様まではっきり見えて、それから、旗竿の先にトンビが止まっているの。手に取るように見えるわ」
「あら、そうなんですね。何でもこのくらいの精度の双眼鏡は欧米でもそうそうないらしくて。靖国神社(やすくにじんじゃ・東京都千代田区)のお祭りの時なんかも様子が良く見えるんです。
  私はこれを覗くたびに思うのですけど、こういう風に話が聞こえたら本当にイイと思いませんか。覗くとあまりに近くに見えるものですから、音や声だってするんじゃないかと思うんです」
「音が聞こえたら、あちらこちらの音が一緒になってゴチャゴチャになっちゃうわ」
  二人は笑い合った。静緒は客のあしらいには慣れたもので、恥ずかしそうに振舞ってはいるが、会話上手である。

「私は初めてこれを見せてもらった時、ダンナ様にすっかり騙されてしまったんです。『鼻のすぐ先に景色が見えるだろう』って仰ったので、『はい、見えます』って応えたら、『見えたらすぐにその双眼鏡を耳に押し付けてみなさい。すぐに耳に押し付ければ、音でも声でも聞こえるんだ』なんて仰ったので…」
  淀みなく語る静緒の顔を見入りながら、貴婦人は微笑んで話を聞いていた。
「私は急いで押し付けたんですよ」
「まあ!」
「そりゃ、全然聞こえないわけでして。そう申し上げたら、『押し付けかたが悪い』って仰って、ご自身で実演されるんです。でも、私が何度やっても何も聞こえないんです。そうするとですね、『お前じゃダメだ』って部下やら親類の方々やら、皆に同じことをおさせになるんですよ」
  貴婦人は耐え切れず失笑した。
速水(はやみ)という者が余りに急ぎまして、耳のココを酷く打って、血を出したくらいなんです」

  貴婦人の楽しげな顔を見て、静緒は椅子を運んで来て勧めてから、さらに話を続けた。
「それで結局聞こえる者が誰もいないものですから、ダンナ様はご自分で試してご覧になるんです。で、『なるほど、確かに聞こえない。どうしたんだろ?』だなんて、そりゃあもう本当に真面目な顔をして、わざと考え込んで、『フランスに居た時はよく聞こえたんだが、日本は気候が違うから、空気の具合が双眼鏡のレンズの度に合わないんだろう。それで聞こえないんだろうなあ』って仰ったのを、皆本気で信じてしまって、一年ばかりそのまま騙されていたんですよ」
  名品の双眼鏡を手にして耳にあてた人物を眼前にして、ダンナの寸劇を実際に見ていた者以上に、貴婦人は面白がった。
「ダンナさんは面白い方でいらっしゃるし、ずいぶんたくさんそんな事をされたんじゃないかしら?」
「それでもここ二・三年はどうもご気分が優れないようで、難しい顔をしていらっしゃいますわ」
  書斎に懸かっている半身の絵画の人こそがその原因なのだろうと知っている貴婦人は、にわかに遠目になり、いつものように物思わしげに寂しそうに打ち沈んだ。

  しばらくして貴婦人は静かに立ち上がった。今度はもっと近くを眺めようと、双眼鏡を取り直した。あっちへこっちへと差し向ける筒先に、特にあてはなかったが、たまたまユズリハが視野に入り込み、視界を覆い尽くした。その粒状の実も珍しく、何の樹だろうとそのままじっと見ていたのだが、葉の陰の向こうに人の顔も一緒に見える。何も考えず眺めていたが、それがどうしても忘れられない面影に似ているのだ。
  彼女は差し向けた手をしっかり据え、瞬きする暇も惜しんで、注意して覗いていたが、枝や葉が視界を遮ってなかなか思うようには見通せない。ようやく彼の顔をはっきりと捉えた時には、彼と相対する人物も見えた。髪は黒いが額がテラテラと禿げ上がっているのは、さっき挨拶に出てきた執事の畔柳だ。

  そして対するもうひとりのその人こそが、濃いめの眉がキリッと上がった三十前後の男である。忘れられない面影に似ているどころか、忘れられないその面影そのものだったと、思いもかけずに気付いてしまった双眼鏡を持つ貴婦人の手は、ワナワナと打ち震えた。

オペラグラス

  流れる水に絵を何度も描くよりも儚い恋しさと懐かしさを抱く朝夕に、未だ夜昼の区別もなく絶えない想い。ほかでもない、四年の長い時間をかけても熱海の朧月に照らされた別れの涙に宿った面影はなかなか消えず、我が身に寄りそう幻だけを形見にしてきたのだ。またいつの日か必ずと信じながら、雨の日も風の日も彼の無事を祈っていた。その心は昔と全く変わっていないが、貫一が恨みを重ねるお宮、そう彼女はここにいる――
  お宮は彼を想い思うのみで、別れてからあとのことは何も知らない。どんな苦労をそれほどまでに重ねたのだろう。年齢よりは面やつれして、怪しくも物々しく老成してしまったものだ。幸薄い暮らしをしているのだろうか、着ている物も上等には見えない。大学院生のころに着ていた服装のままで、いったいどこに身を寄せて暮らしているのか。等々、お宮は行き場のない思念が湧いて出て、胸が張り裂けそうになる。
  何か語っている貫一の笑顔が鮮やかに映ったその時、お宮の目からは玉の糸のように涙が零れた。もはや耐え切れず嗚咽を漏らしたものの、人目があることを思い出して我に返るが、もうどうしようもなくハンカチを目に当てた。
  静緒の驚きは言うまでもない。
「あれっ、どうかされましたか?」
「いえいえ、私は頭痛持ちでして、あまりに物を見つめていると、どうかすると眩暈を起こして涙が出てしまうことがあるのよ」
「椅子にお掛けください。少し頭をさすりましょう」
「いえ、こうしていれば直に治ります。申し訳ないけれど、お冷やを一杯くれませんか」
  静緒は急いで取りに行こうとした。
「あの…あなた。誰にも言わないでね。心配することはないのですから。本当に誰にも言わずに、ただ私がうがいをするからと言って持って来てください」
「はい、かしこまりました」
  静緒が階段を下りていくと同時に、お宮は再び双眼鏡を取って枝葉越しに彼を見ようとした。しかし、一目見るまでもなく湧き出る涙に曇らされて、何も見えなくなってしまう。彼女はしどけなく椅子に崩れ折れると、そのまま泣き乱れてしまった。

画像引用:株式会社ケンコー・トキナー

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