カンタンに読める!金色夜叉/現代版

貫一との再会を渇望したものの
お宮の動揺は計りしれぬ度合いに

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中編第4章-4-

 崩れ落ちるお宮

  これから帰って、とにもかくにもお峯には良いように言い含め、それからきっちり事の実否を糺した上で穏便に収める方法があるものかどうか…などと貫一は思案しながら、黒い帽子をやや目深に被り、慣れた早足で歩いていた。倉の角から斜めに桐の並木の間に出て、砂利道の端を進む。
  周囲に人の往来などあるはずもなく、二人の姿はすぐに彼の視界に入って来た。一人は畔柳の娘だとすぐ判別できたが、顔を背けている眩いほどに着飾った貴婦人のことは、ダンナの客人なのだろうと察した程度だった。

  互いに歩み寄って二メートルほどまで近づいたので、貫一は静緒に向かって帽子を取って慇懃に礼をする。お宮はできるだけ身を縮ませ、密かに流し目で貫一を見た。その顔色は夕顔の白い花に宵のころの月が映り込むかのように蒼白し、脚は震え、胸は今にも張り裂けんばかりに轟いた。
  悟られまいとすれば、ますます震えは増すばかりで、胸の轟きも強くなった。貫一の懐かしい顔が我が目に沁み入るばかりに見えるほかは、生きているのか死んでいるのか判らない気持ちがするお宮。

  貫一は帽子を被り直して通り過ぎようとする隙に、ふと視線を走らせて屋敷の客人である貴婦人を一瞥した。図らずも互いの目が合った。
――お宮! ビッチのお宮だ! カネの匂いがする肉布団じゃないか!――
  驚き。憤り。じっと睨んで動かない彼の目には、みるみると涙が浮かんだ。貫一は掴みかかりたく肉躍る衝動をぐっと堪え、密かに歯を食いしばった。
  懐かしさと恐ろしさと恥ずかしさが一気に押し寄せるお宮の胸の内はもう、何にも例えようがない。人の目さえなければ抱きついてでも思うままに責め苦を受けようとも思うものの、心ではそうしたくとも実行に移すわけにはいかない。せめてこの気持ちだけは通じて欲しいと、見る目に彼女の思いを込めるよりほかはなかった。

  貫一はサッと足を踏み出して先ほどのように足早に去って行った。お宮は付き人に顔を背け、唇を噛みながら歩く。この瞬時の二人の様子に驚いた静緒は何が何だか判らないものの、推し量るべきところは推し量って事の秘匿性を感じ取った。とはいえ、客人の顔色のあまりの悪さと悩ましげな風情に、問うて良いものか悪いものか判断できない。ただ慎ましく引率して歩くほかなかったが、ようやく庭の入口まで辿り着いた時に声を掛けた。
「大層顔色が悪いようですが、お座敷でお休みになってはいかがでしょう」
「そんなに顔色、悪いでしょうか」
「はい。真っ青でいらっしゃいます」
「ああ、そうですか。困りましたね。それではあちらへ行ってまた皆さんにご心配をかけるといけませんし、お庭を一回りしましょう。そのうち気分も良くなるでしょうから、それからお座敷へ行きましょうか。しかし、今日は大変お世話になってしまって、おかげさまで私も…」
「いえ、そんな。とんでもない」

  お宮は指に嵌めていたメジロが集まっている意匠のゴールドのリングを抜き取って、手持ちの紙に包んだ。
「失礼ですが、これはお礼のしるしに」
  静緒は驚き畏れ入った。
「こんな高価なものをいただくわけには…」
「良いんですよ。取っておいてください。その代わり、誰にもお見せにならないでね。お父様にも、お母様にも誰にも仰らないでね。ね?」
  固辞しようとするのを無理に受け取らせると、あとは互いに何も知らぬ顔を作り、樹の間伝いに歩いた。池に架かる木の橋近くに寄ったところで、静かな書院から夫の高笑いする声が聞こえた。

  お宮はこの散歩の間に努めて平静を取り戻し、動揺の色を消して、とにかく人目を逃れようとしていた。しかしこれはまるで酒を飲んで酔わないようにしようと思うのと同じことだ。
  先ほど遭遇した事態が胸に散りばめられたかのように忘れられないのに加えて、なかなか朽ち果てることのなかった恋心までもが更に湧き出でる。心の乱れは募りに募り、耐えられないほどの苦しみが彼女にもたらされた。一歩ずつ歩みを進めるたびに胸の痛みは増し、体内の血はことごとく心頭に集まって煮えたぎるかのよう。
  こんな時こそのんびり意のままに寛げる我が家に一人で居たかったとお宮は思った。人と接して無理に語らい、無理に笑い、無理に愉しむことなど甚だ煩わしい。例の激しく唇を噛む仕草も、もうどうにも止まらないのだった。

  庭の築山の陰になった野路そのままの小道を進むと、足の踏み場もないほどに地を這う葛が乱れ茂っており、クサフジ、ミズヒキ、オシロイバナのさまざまや、チガヤ、ススキには露が下りている。池から流れ引いてちょろちょろと水が落ちるそばには、ゴマダケの茂みに見え隠れして苔が生えた石組みが小高く積まれていた。そこに建つ東屋にお宮はようやく辿りついて、悩ましげに憩うのだ。
  彼女は静緒が柱際に立ったまま控えていたので、
「あなたもくたびれたでしょう。あそこにお掛けなさい。まだ私の顔色は悪いのかしら」
  こう声を掛けるも、その顔の色は先ほどと劣ることもなく青ざめたままだった。それのみならず、下唇が何か傷ついて少し出血しているのに気付いた静緒は大層驚く。
「あらっ。唇から血が出てます。どうしたのでしょう」

  ハンカチで抑えてみると、白いシルク地がザクロの花弁のように染まっていた。コンパクトを取り出して見てようやく、彼女はこれが噛み過ぎからの出血だったと悟る。確かに顔色も自分で見ても凄まじいと思うほどに青く変わっていた。庭の中を何周かして顔色をごまかし隠そうと思うが、我ながらつまらない小細工を図って…とお宮は心の中で自嘲した。

  そこへ築山の向こうから女性の声がした。
「静緒さん、静緒さん!」
  静緒は走って行き、手を鳴らしてその声に居場所を知らせる。しばらく木陰で話す気配がしてから、二人は揃って戻って来た。お宮に会釈をする。
「先ほどからお座敷では、もうお待ちかねになっていらっしゃるそうですので、すぐにあちらへお戻りください」
「あら、そうなのですか。ずいぶん長い時間道草をしていましたからね」
  道を転じて静緒は雲帯橋(うんたいきょう・支柱がない木の橋)がある方へ先導した。橋まで出てくると、正面に書院が見える。早くも置き場がないほどに杯やら皿が並べられているのも見えて、お宮の夫も席に着いていた。

庭園

  彼女たちの姿に気が付くなり、ダンナは縁側に出て来て手招きをする。
「そこを渡って、こっちに灯篭があるでしょ。そのそばにちょっと来てくれませんか。一枚撮らせてもらいたい」
  カメラは既に頃合いの位置に三脚で据えられていた。ダンナは庭に下りたって、レンズのピント合わせなどをするが、
「んー。太陽の向きがなあ」
  こうつぶやく様子を見ようと、ゆらゆらと出て来たのが富山唯継である。片手には火の点いた葉巻。片肘を葉巻を持つ腕に組んで、鼻の下が伸びて見えるような笑みを浮かべていた。
「ああ、お宮。お前はそこに居ないと。なぜ歩いて来るんだね」
  ダンナは慌てた顔でファインダーから目を離した。
「ダメですよ、あそこに居てもらわないと。え? 写真は困る? いやいや、お手間は取らせませんから、ぜひ」
「いやぁ、あなたは上手い言葉を使いますなあ。お手間は取らせませんとは良い表現だ」
「これくらい言わないとね。近頃は写りたがるより、写したがる人の方が多いですから。さあ、奥さん。ま、あちらへ。静緒、お前、奥さんをあそこに連れてさしあげて」
  唯継も目で指し示した上でダンナの援護をした。
「お前、早く行きなさい。せっかくこうやって支度をしてくださったんだ。ぜひ写してもらいなさい。うん、あの灯篭のそばに立つんだ。良いカメラだぞこれは。ん? 何も写真くらいで恥ずかしがることないじゃないか。
  えっ? 恥ずかしがっているわけじゃないって? そうだろうさ。恥ずかしがるには及ばない。普段撮られる感じのままでいいんだ。ポーズは私が見てあげるから、早くおいで。灯篭に寄りかかって頬杖でも突いて空を眺める感じとかはどうだい? ねえ、どうでしょう」
「いいねえ、いいですねえ」
  ダンナは頷いている。

  気は進まないが強いて断るほどのことでもないので、お宮は歩いて指定の位置に立った。
「そう棒立ちになっていちゃダメだ。手に何か持っていたほうがいいかもしれないな」
  唯継は呟きながらサンダルを引っ掛けて、急いでお宮のもとに駆け寄った。そして灯篭に寄り添わせ、頬杖を突かせて、空を眺めよと教えて、彼女の服の袖口が皺になっているのを伸ばした。スカートの裾のもつれも手直しした。さあ、これでよしと少し退いて、全体の構図を見てみれば、唯継はお宮の顔が悩ましげでその色も普段とは異なっていることに気付いたのである。
  すぐさま彼はまた彼女に近付いて問い質す。

「どうしたんだ、お前、その顔色は? どこか悪いのかい。うん、かなり青いよ。どうした?」
「少しばかり頭痛がして…」
「頭痛? それじゃこうして立っているのも辛いだろ」
「いいえ、それほどではないので」
「つらいなら我慢しなくていい。私が訳を言ってお断りすればいいのだから」
「いいえ、大丈夫です」
「いいのかい? 本当に? 我慢しなくていいんだからな」
「大丈夫です」
「そうか。しかし実に良くない顔色だぞ」

  唯継はお宮の体調が気になって、なかなかその場を離れない。待ちかねたダンナが声を掛けた。
「どうしましたか?」
  唯継は慌てて避けた。
「これでお願いします」
  ファインダーを覗いたダンナは二言三言指示したあと、では撮ろうかという段になったので、唯継は彼女の傍から離れた。

  空を眺めるお宮の目には一種の表情力が満ちており、物憂げに頬杖を突く格好も全くわざとらしくない。カラマツの緑の下陰が彼女の洋服に色を加え、秋の高く澄んだ空をバックにして四つ足の雪見灯篭にもたれたその姿。スカートの裾の辺りはツツジの茂みにやや隠れていて、近くには二羽のガチョウが水辺で餌をついばんでいる。
  一幅の絵画のような被写体にダンナは心から喜びつつ、カメラを構えて今、シャッターを押そうか…というその瞬間。お宮の頬杖はたちまちに崩れて、その身体は灯篭の笠の上に折り重なり、ガバッと倒れ伏してしまったのだった。

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