カンタンに読める!金色夜叉/現代版

貫一の姿を見つけたものの
二転三転するお宮の心の内

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中編第4章-3-

 期待と不安と恐怖と動揺

  この貴婦人、富山宮(とみやまみや)は、今日、夫である唯継と共に田鶴見のダンナに招かれていた。男同士で飲み交わしている間、家人に頼んで邸内を見学していたのである。
  ダンナと富山の交際は最近始まった。二人とも日本写真会の会員だったのが理由だ。おのずとお宮が話題の除け者になり、二人でやんやと語らってしまっている。おそらく写真のことであろう。
  富山はこのダンナと親友になりたいと切望し、ただただ彼の心を掴もうと努めていた。ダンナは富山を好んで交際しようと思うタイプの人間とは思わなかったが、彼のアタックの強さには敵わず、今では会員の中で最も付き合いがある人間の一人である。
  それ以降、富山はますますダンナに入れ込んでしまう。家にティツィアーノ(ルネサンス時代のイタリア人画家)の模写だと伝わって所蔵している古い絵画の鑑定を頼むのを理由にして、先だって芝の自邸に招いて存分にもてなしたことがあったので、今日はその返礼に夫婦で招かれたのだ。

  他の会員たちは富山がしきりにダンナに取り入る姿を見て、皆その真意を計りかねた。大体の者たちは自分自身の利欲のためなのだろうと言って、非難し合っていた。しかし実際は全くそういうことではない。
  彼は常に友人を選んだ。富山は交際において、地位、名声、家柄、または資産において、そのどれかひとつに秀でていない者とは決して付き合わなかった。それゆえに彼の友人というものは、それらのひとつの要素に関して、優に彼以上のモノを持っている人間しかいないというわけだ。
  いやまったく、彼は本当に素晴らしい友人を持っていたのである。しかしながら彼は今まで一度もその友人たちを利用したことはない。今回だって裕福なダンナを利用しようとしたわけではない。単に友人とするに相応しい人なので、懸命に交際しようとしただけなのだ。

  それゆえに彼は、何かひとつの憂いを共有する友を持っていなかった。そもそも友人なんてものは、楽しみを共有するためのものである。憂いなどというモノを共有なんてするべきではない。憂いはカネを使えば人の助けを借りずに解決できるし、そもそも人の助けなど借りる必要性なんてどこにもないのだと彼は考えていた。
  彼が良い友人を選ぶのはこの理屈からである。事実、彼が選んだ友人は皆良い人物ばかりだが、どれもこれも遊び楽しむための人物ばかりだった。
  彼はそういう理由で友人に満足していたが、翻って彼の妻にもその思想は当てはまると言い切れようか? 彼の最愛の妻は、守るべき夫の目を盗んで、卑しんでもなお余りある闇金業者の使用人に片思いの涙を流していたのではないのか――

  お宮は周囲に人がいなかったので、とめどなく流れる涙に掻き暮れながら、熱海に浜辺で打ち伏した嘆きをぶり返していた。
  階下から微かに足音が響いたので、なんとか泣き顔を隠す。わざと額に手を充てて部屋の中央にあるテーブルの縁を歩き、そうして静緒の持ってきた水を口に含んで、常備薬を服用した。
  そののち、気持ちも落ち着いたので、また窓に寄り添って外を眺める。
「ねえ、あそこにほら、男の方が話をしていらっしゃるところも、本邸の続きなのですか?」
「どちらでしょう? あ、ああ。あれは父の詰所です。誰か客が来ているのでしょう」
「お宅は? ご近所なのですか?」
「はい。敷地内です。そこからすぐそばに見えます、あの倉の左手に高いモミの木があるでしょう? その陰に見える二階建てがそうです」
「あらそうなの。ではこの下からすぐに家まで行けるのですね」
「そうですね。本邸の裏門の側になります」
「ああ、そうですか。ではちょっとお庭の方から見せてもらおうかしら」
「そうはおっしゃっても、裏門の方は散らかって見苦しいので、ご覧いただけるような所は何もありませんが」

  お宮はここを立ち去ろうとして、再び葉越しの面影を覗き見た。
「つかぬことをお伺いしますが、あそこでお父様とお話をしていらっしゃるのはどちらの方でしょう?」
  彼女の親たちは常に家に出入りしている鰐淵が闇金業者であることを明かしてなかったので、静緒は教えられていた通りを話した。
「あれは市ヶ谷の方の鰐淵という、不動産の売買をしております者の使用人で、間(はざま)とかいう名前です」
「あら、じゃあ違うのかも――」
  お宮は聞こえよがしに呟いて、その勘違いをいぶかしむように振舞いつつ、またそっちを見つめている。
「市ヶ谷のどの辺りなのです?」
「駅前の五番町だとか言っていました」
「お宅へは始終お見えになるのですか?」
「はい。時々来ます」

  このやり取りでお宮は彼が五番町の鰐淵という者に身を寄せていることを掴んだので、どうにかして彼と再会する手段ができたと、得難い宝物を獲得した以上の心地になった。
  とはいえ、この後再び逢おうにもいつの日になることか想像もできない。ずっと願っていたものの叶わなかった、神の力も及ばない今日の偶然を無駄足にして、遠くから眺めただけでまた別れてしまうのはもったいないではないか。
  もし彼の眼に睨まれても、言葉を交わさないでも、互いに面と向かって顔を見たいものだと、四年に渡り渇いていた恋心は焦がれ動いた。

  しかしながら、対面しての再会は、さすがにあまりにも危険であることもお宮は考慮していた。
――付添の案内人がいる賓客の身でありながら、卑しい存在との扱いを受ける使用人ふぜいと、まして邸内の庭で顔を合わせるだなんて。万が一不慮の事態になれば、私たち夫婦はどれほどの恥辱を受けるかしら。
  他人に知られず、私一人の恥辱で済むならば、この顔に唾を吐かれても構わない覚悟があるけれど…
  逃すには惜しいチャンスね。でもまた会える機会が今日しかないと限ったわけではあるまいに、最悪の事態を予想しながらも愚行に走ってしまっていいのかしら…
  いいえ。今日は会うべきじゃないわ。辛くっても思いとどまらないと――

  胸にこう決めた彼女は静緒をその気にさせて邸内を一周しようと、洋館の後方から通用門の脇に出た。外塀のそばの砂利道を進むと、静緒は斜めに見える父の詰所の軒を指して告げた。
「あそこが、さきほどの客が来ていた場所です」
  ユズリハの木は実に高くそびえ、おりしも一羽の小鳥が飛んで来て鳴いた。お宮は胸が怪しく塞がる気がした。
  洋館を下りてここまで来るのに僅かな時間しか掛からなかったので、貫一はまだ退出していないようだ。もしここに出て来たならどうしようか…さすがに恐ろしいようにも思えて、歩みは進めども地面を踏んでいる実感もなく、静緒の語りも耳には入ってこない。そうして裏門の近くにまで辿りついた。

裏門

  まるで見物しているとは思えない、視線を上げていてもどこを眺めているのか焦点が定まらず、俯きがちに物思わしい様子の貴婦人に、静緒は怪しみつつも気遣って問う。
「まだご気分が悪いのでしょうか」
「いいえ。もう大分良いのですが、まだ何だか胸が少々」
「それは宜しくありません。ではお座敷へお戻りになられたほうが良いでしょう」
「家の中よりは外の方が良いのです。もう少しばかり歩いていれば治まりますよ。ああ、こちらがお宅ですか?」
「はい。誠に見苦しい所ですが」
「まあ、キレイ! ムクゲの花が盛りですね。白い花ばかりというのもさっぱりしていて良いじゃないですか」

  畔柳の屋敷から先は道はあるが、客人が足を踏み入れて良い場所には見えなかった。物置、物干し場、洗い場などが透けて見える生垣の手前は、樫の実がたくさん落ちている。その片脇は排水を流す細道に飼っている鳥が遊んでおり、犬が居眠りをしていた。見るだけがっかりする有様なので、静緒は急いで引き返そうとする。お宮も引き返そうとしたが、その瞬間、たちまち恐ろしさが彼女の心を襲った。

――この一本道を歩いて、もしあの人が出て来たところに出くわしたなら逃げることもできず、あからさまに顔を合わせるしかないんだわ。もちろん逢いたいけれど…静緒さんの目があるんだから、何とかしないと…
  たとえここで知らん顔を決め込んでも、彼が驚かないわけがないし。そりゃ、恨みを買った私だから、言葉を掛けてもらえるだなんて思わないけれども、だからって、全く見知らぬ他人のように見逃してくれるはずはないわ。
  ここで私に逢ったら相当驚くでしょうね、きっと。生涯の敵に偶然遭遇したとき、湧き上がる怒りってどれくらいのものなのかしら。貫一さんは絶対激昂するわ。静緒さん、相当怪しむわね――
  こう想像しただけで身体の奥が熱っぽくなり、冷や汗は噴出し、足は地に吸い込まれるかと思われるほどにすくんだ。耐え切れなくなったのだ。

  脇道があるならそっちへ廻ろうと、静緒に問ってみれば、そんなものはないと言う。こうなるのは判っていてこの死地に陥った自分を悔いて、どうすることもできず惑っているお宮の顔色の悪さを見咎めた静緒は、密かに目をそばめた。静緒の視線もまた、彼女の恐怖となった。
  今や心もそぞろになり、歩みも早足になる。倉の角が迫ってきて、そこさえ無事に通り過ぎれば…としきりに急いだ矢先、人影が突如としてその角から現れた。
  お宮は眩暈がした。

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