カンタンに読める!金色夜叉/現代版

来年も再来年も十年後も
恨み続けると月に誓う貫一

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前編第8章-2-

 今月今夜のこの月を

――お宮は俺を捨てたんだ。俺は我が妻を人に盗られたんだ。俺が命にも代えて最も愛した人は、ゴミのように俺を憎んでるんだ――
  恨みは彼の骨の髄にまで達し、怒りは胸を突き破ろうとしていた。ほとほと何もかも破れかぶれになってしまった貫一は、もういっそこのビッチの肉を食い齧って、この煮えたぎる腸(はらわた)を冷まそうかと思い詰めた。そして頭が張り裂けそうになると、その苦痛に耐えきれず、彼は尻もちをつくように倒れたのである。

  お宮は驚く暇もなく、揃って砂にまみれながら貫一を抱きあげれば、閉じた眼から乱れ落ちた涙に濡れた灰色の頬を、月の光が悲しげに彷徨う。迫る息からは、凄まじく波打つ胸の響きが伝わってくる。お宮は彼の背後に取りすがって抱き締め、揺り動かした。震え声で言葉を発すると、その声はますます震えた。
「どうして? 貫一さん、どうしちゃったのよ!」
  貫一は力なくお宮の手を握った。お宮は涙に汚れた彼の顔をやさしく指で拭う。

「ああ…宮さん。こうして二人が一緒に居るのも今夜限りだ。お前が俺の介抱をしてくれるのも今夜限り。
  一月十七日。宮さん、よく覚えておきな。来年の今月今夜は、俺はどこでこの月を見るんだろうか! 再来年の今月今夜…十年のちの今月今夜…
  一生俺は今月今夜を忘れやしないさ。忘れるもんか。死んでも俺は忘れない! いいかい、宮さん。一月の十七日だ。来年の今月今夜になったなら、俺の涙で必ず月を曇らせてみせるから、月が…月が…月が…曇ったなら、宮さん、俺がどこかでお前を恨んで今夜のように泣いていると思ってくれ」

曇る月

  お宮はひしゃげるほどに貫一に取りすがって、狂おしく咽び入った。
「そんな悲しいことを言わないで。ねえ、貫一さん、私も考えがあってのことなんだから、そりゃ腹も立つでしょうけど、どうか許して、少し辛抱してちょうだい。私だって胸の内には言いたいことがたくさんあるけれど、余りに言いにくいことばかりだから、口には出せないわ。
  でも、ただひとつだけ言いたいのは、私はあなたのこと、忘れはしないわ――私は生涯忘れないわ」
「聞きたくない! 忘れないってくらいなら、どうして俺を見捨てたんだ?」
「だから私は決して見捨てたりはしないのよ」
「何だって? 見捨てない? 見捨てないって言い張る者が、よそに嫁に行くのかい。バカな! 夫を二人持つのか」
「だから私にも考えてることがあるんだから、もう少し辛抱して、それを――私の心を見てください。あなたのことを忘れない証拠をきっと私は見せるわ」

「んあ? 動揺してくだらないこと言うなよ。食うに困って身を売らねばならないんじゃあるまいし。何を苦しんで嫁に行くと言うんだ? 家には一億四千万なりの財産があって、お前はそこの一人娘じゃないか。おまけに婿まで決まっているんじゃないか。その婿も四・五年のうちにはじゃんじゃん稼いで、将来の見込みだって着いているんだ。
  しかもお前は、その婿を生涯忘れないほどに思っていると言っているじゃないか。それに何の不足があって、無理に嫁に行かねばならないんだ? 世の中にこれほどワケの判らない話があるか。どう考えても嫁に行くべき必然がないものを、無理に算段して嫁に行こうってなるんだから、必ず何かよほどの事情があるはずだろ。
  俺じゃ不満なのか? 金持ちと結婚したいのか? 考えられる大きな理由は、このふたつ以外にはないだろうさ。言って聞かせてくれよ。遠慮なんかいらない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することはないんだ。一度結婚を決めたものを振り棄てるくらい無遠慮なくせに、こんなことに遠慮も何もあるもんか」

「私が悪いんだから、許してください…」
「それじゃ俺に不満があるんだね」
「貫一さん、それはあんまりだわ。そんなに疑うのなら、私はどんなことでもして、証拠を見せてあげるわ」
「俺に不満がない? それじゃ富山が金持ちだからか。
  つまり結局、この結婚は欲から出たものなのだね。俺と別れようっていうのも、欲から出たものなのだな。で、この縁談にはお前も納得したんだな、ええ?
  小父さん小母さんに迫られて、やむを得ずお前が納得したのなら、俺の考えで破談にする方法はいくらでもある。俺ひとりが悪者になれば、小父さん小母さんをはじめ、お前の迷惑にもならないよう縁談をぶち壊してしまうことはできるさ。だから、お前の真実の考えを聞いたうえで、それを駆使することはできるけれど、お前はどうなんだ。その気はあるのか?」

  貫一の眼は全身の力を集めて、思い悩むお宮の顔を鋭く見つめていた。五歩行き、七歩歩き、十歩進んだけれども、彼女の返事はない。貫一は空を仰いで溜息を洩らした。
「いい。もういい。お前の心はよく判った」
  今となっては何を言っても無駄だと感じ、重ねて何か口走しったりしないかと思いつつも、彼は乱れる胸を落ち着かせようと、強いて眼を見開いて海の方を眺めたりしたが、どうも耐えられそうにもない。
  そしてまた口に出して言おうと振り返ってみれば、お宮はそばにおらず、10mほど後ろの波打ち際で顔を覆って泣いていた。

  悩ましげなその姿は月の光に照らされ、風に吹かれて、哀れにも消えてしまいそうに立ち迷っている。果てしなく続く海の端が白く崩れた波となって打ち寄せるまったく憐れ深い風情に、貫一は思わず怒りも恨みをも忘れて、しばし絵画を観るような気分さえした。おまけにこの美しい人が今や自分のものではないと思えば、悪い夢でも見ているんじゃないだろうかと疑心さえしてしまう。
「夢だ。夢なんだ。長い夢を見たんだ…!」
  彼は顔を伏せて足の向かうままに波打ち際のほうへ進んで行ったが、泣く泣く歩いてきたお宮と知らずに行き合った。
「宮さん、何を泣くんだ? お前が泣く理由なんか何もないじゃないか。嘘泣きか!」
「どうせそうでしょうよ」
  ほとんど何を言っているのか聞きとれないほどに、その声は涙で乱れていた。

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