カンタンに読める!金色夜叉/現代版

消えた貫一
残されたお宮と満枝は…

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続金色夜叉第6章-4-

 孔雀と女豹

  家政婦は慌てて踵を返して満枝の居場所へ戻った。
「こちらに戻っておられませんか?」
「誰が?」
「あの…あちらにもいらっしゃらないのですが」
「間さんが? どうして?」
「今しがた、こちらへ向かったという話なのです」
「嘘でしょ、嘘よ」
「いいえ…あちらにはお客様がおひとりでいらっしゃるだけで…」
「嘘ばっかり」
「いいえ。決して嘘なんかじゃありません」
「だってこちらへ出て来やしないじゃないの」
「ですから、まあ、どこへ行ってしまわれたのかしらと思いまして…」
「きっとあちらで隠れてるんでしょ」
「そんなことをするでしょうか?」
「どうだか知らないわ」
「さあ…お手洗いかしら?」

  そこら辺を探そうと、家政婦は再び踵を返した。随分と私も軽んじられたものねと、満枝は遣り場のない口惜しさに動揺しつつ、騒ぎ戸惑う素振りを一切見せなかった。毒であると知りながら口に含んでは、効き目を耐え忍ぶかのように、何とも言えない苦しみにひとりまみれる。
  一方お宮は貫一に逃げられ、頼みの綱が切れてしまったと、もはや縋る望みも無くなってしまっていた。ましてここから帰る気力も湧かず、罪の報いは悲しくもいつまで儚いままの我が身なのかと、顔を塞いではまた天を仰ぎ、溜息をつくだけだった。

  さっと空模様が怪しくなった。軒を打つ雨音がだんだんとテンポアップする。棚やクローゼットの他にはもう探す場所もなくなり、結局貫一の姿を見つけられなかった家政婦は、奇妙な表情で再び貫一の部屋に戻って来た。
「どこにもいませんね…」
「あら、そうですか。ではお出掛けにでもなったのでしょうね」
「そうですねえ。一体まあどうしたって言うんでしょう。あちらにもこちらにもお客様を置き去りにして。さてさて、どこか出掛ける用事もないはずなのですが、家じゅうどこにも居ないってことは、出掛けたのでしょうねえ。それにしても…ちょっと、失礼しますわね」

  家政婦は再度満枝のところへ急ぎ、事態を説明した。
「いいえ、私は見て来たんです。あちらにはいません。確実に」
  家政婦はふと思い当ったのか、靴があるかどうかを見に行こうと立ち上がった。次いで立ち上がった満枝は庭先の縁側に向かうと思いきや、つかつかと貫一の部屋へ歩いて行った。
  お宮は誰が何のために入って来たのかも判らず、驚きながらも彼女を迎え入れて身繕いをした。自分の恋人の元カノの顔を見てやろうとやって来た満枝は、恋敵が意外にも自分より若くて自分より美しく、自分よりしおらしい上に自分より高貴な装いであることを思い知らされた。湧き上がる妬み憎しみ。ただこの女に恋心を抱いたせいで、人情も誠の心をも貫一から消し去ってしまったのだと思うと、彼女は憎悪の一念を鋭い剣に変えて、この場で刺し殺してしまいたい気持ちにいよいよ駆られた。

  お宮は茂る葉の陰で咲き遅れた花のように、やや恥ずかしげにしていた。夕月が涼しげに屋根を離れるがごとく、満枝は彼女の前に進み出て、互いに一礼した後で声を発した。
「お初にお目にかかりますが、間さんの――ご親戚の方でいらっしゃいますか」
――憎らしい人を心底苦しめてやろう――これが満枝の真意だった。
「はい。親戚筋の者です」
「おや、そうでございましたか。私は赤樫満枝といいまして、間さんとは年来懇意にさせてもらってます。もう親戚同然のお付き合いでして、度々お世話になったり、また及ばずながらお世話したり、始終気安くさせてもらってましたが、ついぞまあ、これまで存じませんで」
「はい、つい先日まで長らく遠方にいましたので」
「まあ、そうなのですか。よほど遠方だったのですね」
「はい…広島の方に居ました」
「あら、そうなのですね。今はどちらに?」
「池之端(いけのはた・東京都台東区。上野公園の西側)に――」
「まあ、池之端。良いところですね。しかしかねてからの間さんの話では、彼は身寄りも何もないので、どうか親戚同様にいつまでも仲良くして欲しいということでしたから。だからもう全くそうだとばかり私、信じてたんです。
  ですから今こうしてお話を伺ってみれば、ご立派な親戚がお有りなのに、どういうつもりであんなことを言ったのかしらと。何も親戚がいることなんて、隠す話でもないじゃないですか。あの人って、時々そういう水臭い真似をするんですよね」

ワケありな微笑を湛える女

  疑念の雲が初めてお宮の胸に懸かった。
――父がかつて病院で見た何かいわく付きの女というのは、この女性のことだ…
  さては来客と言ったのも嘘で、もしや内縁の妻が私を咎めて邪魔立てしようとしているのか。それとも貫一さんがこの女を見ろとここに引き出したのか――
  今更ながらに父の言葉が正しかったことを思い、彼女は自分の仇なした行為で病んだ精神に追い打ちを掛けて鞭打たれたかのように感じた。

  ますます長居は無用。今日のこの場はもうこれまで。潔く退出しようとするも、どこかに隠れている貫一がお宮の帰るのを待って、帰宅と同時に出て来てはこの女の手を取るんじゃないか。ふたりで顔を並べて、哀れな我が身を笑い罵るんじゃないかと想像すると、お宮はいかにも悔しくて、どうしたものかと心苦しく躊躇っていた。
「お久しぶりに折角お越しいただいたのに、あいにく間さんは捨て置けない緊急の用事ができたものですから、出掛けてしまったのです。ちょっと遠方まで行きましたので、帰りは夜になります。近日また改めてゆっくりとおいで下さい」
「長々とお邪魔しまして。あなたもご用があったでしょうに、心ない邪魔をしてしまって申し訳ありません」
「いいえ、私はしょっちゅう来てますから、ちっとも遠慮なさらないで。あなたこそさぞ残念でしたわね」
「はい、とっても残念です」
「そうでしょうとも」
「四・五年ぶりで会いましたので、色々と昔話でもして今日一日過ごしたいと楽しみにしていたんです。ですからホント残念です」
「そうでしょうねえ」
「では、これで失礼を」
「お帰りですか。ちょうど今は雨も小降りですわ」

  憎たらしいやら悔しいやらとしのぎを削る心の刃を胸の内に抱え、彼女たちはお互いもう二度と相手が自分の視界に入って来ないことを願いながら別れたのである。

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