 貫一の咄嗟の決断
 貫一の咄嗟の決断
      		  貫一は夢とも現実とも判らぬ風情でお宮を見つめていた。お宮は感極まっており、我を失う一歩手前だった。彼女は誰もが羨むダイヤモンドを希って手に入れたために失ってしまった貫一の手を、ぎゅっと掴んで放そうとしなかった。
	        誰もが羨むダイヤモンドであろうが、どれほど大きなダイヤであろうが、その価値たるや、ごくちっぽけな誠実な心にすら及ばないことを、彼女は既に知っていた。彼女が手に入れたダイヤモンドに無限の価値はなかった。しかし捨て去ってしまった彼の誠実な心には、計り知れない価値があったのだと悟ったのである。心は一体どこへ消え失せてしまったのだろう。
   		    	  かつて真心を伝えてくれた彼の手は、今は冷ややかなものだ。空しくその手を掴んで泣くために尋ねて来た彼女の懺悔は、実にどれほどに価値あるものか――
「さあ、早く帰れ!」
      		  「もう二度と逢いに来ないから、今日だけはどうしても我慢して、ぶつなり、叩くなり、貫一さんの好きにして。それで少しでも気が済んだら、私がお詫びに来たワケを聞いてちょうだい」
      		  「ええい、うるさい!」
      		  「じゃあ、ぶつでも殴るでもして!」
	      		  身悶えしてお宮は縋りつく。
        「そんなことで俺の気が晴れるとでも思っているのか。殺しても飽き足らないんだ」
      「ええ、殺されたっていいわ! 殺してください。私は、貫一さんに殺してもらいたい。さあ、殺してください。死んでしまったほうが良いわ」
  「自分で死ね!」
  貫一自ら手を下して我が身を殺すことすらバカバカしいと思うまでに自分を卑しめているのかと、余りの辛さにお宮は唇を噛んだ。
      		「死ね、死ね。お前も一旦捨てた男に対して、今更みっともない醜態を晒さずに、どうして最後まで立派に捨て通さないんだ」
      		「私は始めから貫一さんを捨てる気なんてなかったの。だからちゃんと話をしたいのです。死んでしまえと言われずとも、私はもう自分では生きているとは思っていないの」
      		「そんな事は聞きたくない。さあ、もう帰れと言ったら帰らんか!」
      		「帰りません! 私はどんなことをしても、このままじゃ…帰れません」
  お宮は握った貫一の手をますます緩めず、ますます高ぶる心の内には夫の姿もなく、世間もなくなっていた。ただただ命を差し出してもよいと信じる者を失いたくないとだけ、ひたむきに思いつめていたのだ。
			  	  折から足音が聞こえて来た。家政婦が向かって来ると察した貫一は、握りしめられた手を引き剥がそうとしたが、どうしたものか、お宮は一向に力を緩めることなく、しがみついたまま離れようともしない。
	    		  そうこうするうちに足音はドアの外にまで迫っていた。
      		「ほら、人が来た」
      		「……」
  お宮は却って力をこめた。不意にこの様子を目の当たりにした家政婦は、半ば開いたドアの陰から顔を覗かせつつ言葉を発した。
   		    「赤樫さんがお見えになっています」
   		  	  	  追い詰められた貫一の顔が曇った。
	  	    「ああ、今そっちへ行くから――ほら、客が来たんだ。いい加減に帰れ。ええい、放せ。来客だというのに、どうしようってんだ」
  	      「では私はここで待っていますから」
        「知らん! もう放せ」
      		  	  容赦なく彼女は捩り倒された。乱暴に振り捨てられて起き上がれないままでいる隙に、彼は出て行った。
 
	  	  	  客間のコートハンガーに懸かっていたコートに目を留めた満枝は、以前は知らなかったその客のことを質問せずにはいられなかった。また常に目を掛けてもらっているその家政婦も、何があったかの仔細を始終彼女に報告する労を惜しまなかった。
  さてはと推察した胸の内は怒りに燃え、憎い恋敵が早く出て来ないか、どんな顔をして私の顔を見るだろうと焦らされて、待っている時間も永遠に感じられる。しかし貫一はなかなか姿を現さず、おまけにふたりが居るであろう方向は、全く人気を感じないほどに静まり返っていた。私に隠れて逢い引きかと思うと、いよいよ彼女は堪え切れなくなった。
「豊さん、もう一度、間さんに言いに行ってくれません? 『私今日は急ぎますので、ちょっとお目に懸かりたいだけなのですが』って」
「でも私、ほんと行きにくいんです。何だか話が非常に込み入っているようでして」
「構いやしないじゃないの。私がこう申していたと言いに行くだけなんだから」
「ではそう申し上げて参ります」
「よろしく」
  家政婦は歩みを進め、ドアの外から声を掛けた。
  	  	    「間さん、間さん」
  	      「こちらにはいらっしゃいませんよ」
  	    	  	  こう答えたのは客の声だった。家政婦はドアを開いた。
    	  	  「あれ、そうなんですか」
		    	  確かに貫一の姿はそこになく、居たのは座っている客人だけ。まだ悲しみが残る顔つきで、少しばかり髪も乱れていた。服も腋のあたりで5cmほどは破れ裂けていたのを、取り繕うようにしながらお宮は答えた。
	      「今しがた、そちらへ向かわれましたが」
        「あらら、そうですか」
      「あちらのお客様の方へいらっしゃったのでは?」
    「いいえ。あちらのお客様が急ぎの件があるとおっしゃってますので、そうお伝えに来たのですが。それじゃあ、どこに行ってしまったのでしょう」
  「あちらにもいらっしゃいませんの?」
「そうなんです」


