カンタンに読める!金色夜叉/現代版

お宮の必死の頼みに対し
荒尾が返した答えは…

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続金色夜叉第2章-2-

 新たな罪

  霜が下りた松の木のように微動だにしなかった荒尾も感銘を受け、長く伸びた髭を振って頷いた。
「うむ、面白いじゃないか! 逢って殺されたいとは、宮さん、よくぞそこまで言った。そうじゃないとね! しかし、しかしだ。キミは今、富山の奥さんだ。唯継という夫のある身だ。滅多なことはできまいよ」
「構いやしないんです!」
「ダメだ、そりゃダメだよ。間に殺されても構わないというその覚悟は立派だが、それではキミは間のことばかりを考えてるだけで、ご主人のことを全然考えていない。
  キミが行動してご主人がどう思うか、ご主人の立つ瀬がなくなってしまう事態になりはしないかと、そこも考えてやらないと。
  思い返せば、初めにキミは富山のために間を欺いた。そして今また、キミは間のために富山を欺くんだ。ひとりならず、ふたり欺くんだよ。一方には悔悟して、その場でもう一方に対して罪を犯してしまっては、せっかくの悔悟も価値をなくしてしまうじゃないか」

「そんなこと、構わないわ!」
  ぎゅっと唇を噛み、お宮は抑えられない感情を吐き出す。
「構わんわけにはいかんでしょ」
「いいえ、構わないんです!」
「そりゃダメだダメだ」
「私、もうそんなことはどうだって良いのです。私の身体がどうなろうとも、とっくに棄ててしまったも同然なのですから。ただもう一度貫一さんに逢って、私の気が済むまで謝ることさえできれば、その場で死んでもそれは本望なのです。だから富山のことなんて――いっそそうして死んでしまいたいのです」
「ほらほら、そういう無鉄砲で考えのない、道理の通らない人に僕は与するわけにはいかないよ。そもそもキミがそんな考えの持ち主だからこそ、初めに間を棄てたんじゃないのかい。不道徳極まりないよ!
  人の妻という身でありながら夫を欺いてそれでOKだなんて、一体どういう頭をしているんだ。僕はむしろ富山を不憫に思うよ。キミみたいな不貞で不義な女を妻にした富山その人の不幸を憐れむばかりだ。キミよりも富山に同情するね。ますますキミが憎らしくなった」

  しまりなく乱れ潤うお宮の目は、涙で溢れ輝いていた。
「そんなことを言われてしまったら、私はどう悔悟すればいいの。荒尾さん、どうか助けると思って教えてください」
「僕には教えることができないよ。自分でよくよく考えてみるんだね」
「三年も四年も前から、一日だってその事を考えない日なんてなかったわ。そのせいかずっと鬱々と患っている感じで、ああもうこんなことならいっそ死んでしまおうと、つくづくそう思いながら過ごしてきたのです。たった一目、一目だけで良いから貫一さんに逢わずしては、死んでも死に切れない…」
「まあ、よくよく考えてみなさい」
「荒尾さん、それはあんまりだわ…」

  抱えきれぬ心細さで、お宮は泣きながら荒尾の袖を掴んだ。その手を払いかねた荒尾も、心潰れる思いで胸が塞がり、あの麗しかったお宮のやつれ姿に目を凝らすのだった。
「荒尾さん、ここまで思い抜いて私、悔悟しているんです。昔の私だと思って、どうか頼みを聞き入れてください。どうか荒尾さん、どうかどうか、教えてください…」
  涙に掻き消えて彼女の言葉はよく聞こえなくなる上に、階下からの物音がそれを打ち消してしまった。食事を運んで来る音だった。すぐに人が入室し、夕食の準備でしばし紛れた。あとはふたり、言葉にできない侘びしい空気の中、ただ相対するのみだった。

  荒尾がひとつ咳をして、口を開く。
「キミの言いたいことはよく判った。決して無理な頼みというわけでもない話なのだし、そりゃキミに教えてやりたいさ。教えてやって、キミの身の振り方が定まるのなら、教えないことはないよ。
  けれどどうしても教えてあげられないのは、僕がもしもキミの立場だったらこうするだろうという考えにしか過ぎないわけで――
  いやいや、やっぱり言えない。言っても良いことならば、そりゃ言います。でもこれは人に対して言うべきことじゃない、まして教えることでもない、ただ僕ひとりの考えとして腹の中で思っただけのこと。つまり荒尾的な空想でしかないのだから、空想を教えて人の人生を誤らせては元も子もないので、僕は何も言わないのさ。言わないってことじゃないな。実際、言うことができないんだよ。

  それでもまあ、よくよく今後考えてみて、キミに教えても良い方法ってものを見出したら、またお目にかかってキミに教えますよ。機会があればね。
  ん? 僕の住所? 住所は…まあ、言わぬが華かな。放浪人だから住所不定みたいなもんだよ。別に明かしても差支えはないけれど、キミに押し掛けて来られても困るから、言わない。
  まあ、いかにもこんな恰好をしているんだから、キミもびっくりしただろう。自分でも自分のありさまに驚いているくらいだからね。でもこればかりはどうしようもない。僕の身の上については色々と理由があるし、それも話しておきたいことではあるけれど、また次の機会にでも。
  ん? 酒をあまり飲むなって? うん、今日みたいに酔うことはほとんどないんだが。でもせっかくの忠告なのだし、今後は気をつけますよ。

日本酒

  まあ、力になってくれと言われても、人の義を思えば、僕はキミの力にはなれやしない。キミの胸中の思いを聞いてしまったから、敵にはなりません。けれど力にはなれませんよ。
  間にもあれから逢っていないですし。一度逢って聞きたいことも言いたいこともたくさんあるのだけどね。訪ねて行くこともないし。別に訪ねないことに何か理由があるわけではないが。
  はあ、じゃあ一度訪ねてみますかね。え? 明日行ってくれだって? そうはいかない。僕だってこれはこれで色々用事ってものがあるんだから。
  ああ、うん。キミも世間との関わりが面倒なんだね。僕だってそうさ。世の中ってものは、ひとつ間違うと全く面倒で、僕なんかも現状を省みると生きがいも何もない身だけれど、このまま空しく死んでしまうのも無念だしね。そう思って生きているんだが、苦しみながら生き続けなければならないのなら、死んだ方が無論マシですよ。なぜ自分の命が惜しいのか、考えてみるとますます判らなくなるね」

  そう語りつつ、荒尾は食事を終えた。
「ああ、キミによそってもらって飯を食うなんて何年ぶりだったろうか。間もたくさん食ってたなあ」
  お宮は差しぐむ涙を拭った。尽きない悲しみをずっと眺めているわけにもいかぬと、荒尾は俄かに身支度して口火を切った。
「随分長居しましたね。どうもごちそうになりました。それではそろそろ…」
「荒尾さん…」
  すっくと立ち上がった荒尾の前に、お宮が涙をこぼしながら立ち塞がった。
「私はどうしたら良いのでしょう」
「覚悟ひとつです」
  初めて教える言葉を述べるかのように言い放つと、荒尾は彼女を振りほどいて去ろうとする。しかし彼女はなおも取り縋った。
「覚悟って何ですか?」
「読んで字のごとしですよ」
  それだけ言うと、荒尾は素早く部屋を退出した。見送りもせず、座るでもないお宮は、ただ寂しげに壁に向かったまま、ぴくりとも動かなかった。

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