カンタンに読める!金色夜叉/現代版

満枝の恋の手練手管は
はたして貫一に効果あり?

目次 > 中編 > 第2章 1 / 2 / 3

中編第2章-3-

 満枝の負け試合

「失礼ですが、私はお先にご飯をいただきます」
  貫一が飯櫃を引き寄せようとするのを、満枝が抑えた。
「ご飯なら、私がよそいます」
  満枝は飯櫃を自分の方に取り寄せたが、茶碗を上に伏せて、向こうの壁際に押しやってしまった。
「まだまだご飯には早いですよ。もう一杯召し上がって」
「もう頭が痛くて敵いませんから許してください。腹も減っていますし」
「空腹ならご飯を食べねばさぞ辛いでしょうね」
「そこまででは…」
「そうでしょ。ですから、私の思いが全くあなたに通じないのは、空腹でご飯を食べないことより遥かにつらいことなんですよ。そんなにお腹が空いているのなら、ご飯をよそいますから、あなたも今の私の申し出のお返事をなさってください」
「返事と言われましても、仰ることの趣旨が良く判らないんですよ」
「なぜお判りになりませんか」

  責めるように貫一の顔を見遣るので、彼もまた詰(なじ)る風に見返した。
「判りませんよ。親しい関係でもない私に資金を出そうとしてくださる。そしてその理由がですよ、あなたもあそこから独立する。判らんじゃありませんか。どうかご飯を食べさせてくださいよ」
「判らないだなんて、あなた、酷いじゃないですか。では、お気に染まないのですか」
「気に入らんということはありませんが、縁もないあなたにカネを出していただく…」
「いいえ、そのことではございません」
「どうも非常に腹が減ってきました」
「それともあなた、他にお約束されていらっしゃる方がいらっしゃるとか?」

  とうとう本心を露わにしたかと察知した貫一だったが、さっぱり何も判らないという顔を作った。
「妙なことを訊きますね」
  苦笑だけでそれに続く言葉が出てこないので、満枝ははぐらかされた気になって、やや戸惑いの色を見せる。
「そういう方がいらっしゃらなければ…私、あなたにお願いがあるのです」
  貫一もキッと胸を張り、
「うん。判りました」
「あ、お判りになっていただきました?」
  嬉しいと言いたげな気色で、お猪口に残っていた酒を一息に飲み干して、その盃を貫一に差し出した。
「またですか」
「ぜひ!」

  はずみに乗せられて、貫一は思わずお猪口を受け取った。するとなみなみと酒が注がれ、貫一は下に置くこともできず口を付ける。それを見た満枝は歓喜した。
「その盃は清めていませんよ」
  いちいち下心があって邪険にもできない女の言葉を、彼は面倒臭く持て余す。
「お判りになったのでしたら、どうぞご返事を」
「その事でしたら、これきりにしてください」
  ただそうとだけ言い放って、貫一は厳めしく沈黙した。満枝もさすがに酔いが醒めてしまって、彼の顔色を窺ったが、例のごとく口数が少ない男なので何も言わない。
「私もこんな恥ずかしいことを一旦申し上げたからには、このままでは引き下がれません」
  貫一はゆっくりと頷いた。
「女の口からこういうことを言い出すというのは、よくよくのことなんです。ですから、それに釣り合うだけの理由を仰って、どうか充分に私が納得できるようお話しくださいな。私、冗談でこんなことを言っているのではありません」

「ごもっともです。私のような者に、そんなに言ってくださるのかと思えば、決して嬉しくないわけがありません。ですから、そのご親切に対して、包み隠さず自分の考えをお話しましょう。けれど、私は知ってのとおりの偏屈者ですから、考えが世間ずれしていることをお忘れなく。
  第一に、私は妻というモノを決して持たない覚悟をしています。ご承知かどうかは知りませんが、私は元々学生でした。それが途中で学問を止めてこの商売を始めたのは、遊びすぎて退学になったからというわけでもなければ、生活に困ったからでもありません。学生が嫌で商売を始めようと言うのなら、他にいくらでも良い商売がありますよね。何をわざわざ苦しんで、こんな極悪非道な、白昼堂々強盗まがいのようなことをすると言うか、病人に食べ物を食わせない真似とでも言うか、命より大切な人の名誉を殺してまでも金銭を奪い取る闇金屋なんかを選ぶものですか」

  聴いていた満枝はますます酔いが醒めてしまった。
「不正な家業と言うよりは、もはや悪事ですね。私はそれを今日初めて知ったわけじゃない。知っていてこの身を落としたのは、私は当時、相手を殺して自分も死にたかったくらい無念極まる失望をしたからです。
  その失望と言うのは、私が人を頼っていたことがあって、その人たちも私を頼りにせねばならない義理になっていたのを、ふとした欲にほだされて、約束を破る、義理を捨てる…そして私は見事に売り棄てられたのです」
  明かりに照らされまいとする彼の目がにわかに光を反射するのは、なお新たな痛恨の涙を浮かべていたからであった。

「実に頼りがいの無い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪もない私が売られてしまったのも、もとはと言えば金銭からなのです。仮にもひとりの男たる者が金のために見捨てられたのかと思うと、その無念たるや…私は、い…一生忘れない。
  軽薄でなければ騙し、騙さなければ利欲。この世に愛想も尽きました。それほど嫌な世の中なら、なぜひと思いに死んでしまわないんだって不審に思うかもしれません。私は死にたくとも、その無念が邪魔をして死に切れないんです。私を売り棄てた人たちを苦しめるような、そんな復讐はしたくありません。ただ、自分だけでいいから、一旦受けたその恨み! それだけはきっと晴らさねばならないんだと、片時もその恨みを忘れることができない胸中と言うものは、我ながらまるで発狂しているかのようですよ。
  それで、闇金みたいな残酷さ甚だしい、ほとんど人を殺すほどの度胸が要る事を毎日やってでもなければ…そうやって感情を暴れさせておかねば、とてもじゃないですが耐えられないんです。発狂した人間にぴったりの商売ですよ。
  金銭のために売り棄てられ、辱しめられもしました。金がないと言うのも、いわば無念のひとつです。金があれば何かと恨みが晴れるだろうと、それを楽しみに義理も人情も捨ててしまって、今じゃ名誉も色恋もなく、金以外に何の望みも持ってないんです。
  また考えてみれば、なまじっか他人を信じるより金を信じた方が間違いがない。人間よりは金のほうが遥かに頼りになりますよ。頼りにならないのは人の心です!
  まずこう言う考えで、この商売に入ったものですから、実を申せば、あなたが貸してやろうって言ってくれる資本は欲しい。でも人間のあなたに用はないんです」
  彼は仰いで高笑いをしたが、表情は激しく歪んでいた

顔をゆがめる男

  満枝は彼の言葉が偽りではないと悟った。彼の偏屈さから見れば、そう言う思想を抱くようになったのも判らないではない。けれども彼は未だ恋の甘さを知らないがために、心を狭くして、この面白い世の中に対して偏屈の扉を閉じている。騙しと軽薄と利欲の他に、楽しみだってあるってことに気付いていないのだ。私がそれを教えてあげればいいわ、と満枝は望みを捨てなかった。
「じゃあ、こういうことかしら。私の心もやっぱり頼りにならないものだと、疑われるのですか?」
「疑う、疑わないと言うのは二の次で、私はあの失望以来、この世の中が嫌になってしまって、全ての人間を好まないんです」
「それでは、そう例えば――命を懸けてあなたを想う人がいらしても?」
「もちろん! 好いた惚れただの、想うのだのと言うことは大嫌いなんです」
「あの、命を懸けて慕っているのが、判っていてもですか?」
「闇金の目に涙なんてありませんよ」
  今は取り付く島もなく、満枝はしばし呆然としていた。

「ご飯をください」
  萎れた様子で満枝は茶碗に飯をよそって出した。
「ありがとうございます」
  隣に人などいないかのように、彼は飯を掻き込んだ。満枝の顔は薄紅にわずかに酔いを残しながらも、酔っぱらった感じはなくなり、ただ想い案じていた。
「あなたも食べませんか?」
  こう言って彼は三杯目をおかわりした。やや間があって「間さん」と呼ばれた時、彼は口一杯に飯を詰め込んでいたため、すぐに返事ができず、ただ視線を上げて彼女の顔を見ただけだった。
「私もこんなことを口に出すまでは、もしもあなたに断られたらどうしようかと、そんなことも考えたりしました。だからしばらく胸に畳んでいたんです。今日までじっと黙っておいたものを、こう一も二もなく綺麗さっぱりと断られてしまっては、私、恥ずかしくて…余りにも悔しいです」
  慌ただしくハンカチを取り出し、片手で恨み泣きの目元を覆う。
「恥ずかしくて私、立ち上がることもできませんわ。間さん、判ります?」
  貫一は冷やかに振り向き、
「あなた個人を嫌ったという訳ならば、そうかもしれませんが、私は全ての人間が嫌いなのですから、悪く思わないでくださいよ。あなたもご飯、食べてはいかがです。あ! そういえば小車梅の件の話って?」
  涙で赤くなった目を拭った満枝は答えもしない。
「どういうお話でしょうか」
「そんなことはどうでもいいんです。間さん、私、どうしても諦めきれませんから、覚えておいてください。で、嫌なら嫌で結構ですから、私がこんなにまで想っていることを、いつまでも忘れないで…きっと覚えててくださいね」
「承知しました」
「もっと優しい言葉をください…」
「私も覚えておきます」
「もっと何とか他に仰りようがありそうなものでしょうに」
「お気持ちは決して忘れません。これならいいですか?」
  満枝は物も言わずに立ち上がり、ひらりと貫一のそばに寄り添って、
「忘れちゃダメなんですからね」
  そう言って力一杯太腿をつねったので、貫一は不意の痛みにひっくり返りそうになるのを耐えて、彼女の手を振り払う。しかし、満枝はさっと身をかわして、知らん顔で手を打ち鳴らし、店員を呼んでいた。

続きを読む