カンタンに読める!金色夜叉/現代版

まさかの事故が
まさかの再会になる

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続金色夜叉第1章-2-

 奇遇

  軽い接触ゆえにこんな粗忽者の面倒など看てられぬとばかりに、運転手はそのまま場を立ち去ろうとした。しかし車に乗っていた黒いコートとグレイの帽子姿の婦人が、車を止めて事故現場に引き返せと主張する。
  それでもなお運転手はそのまま立ち去ろうとしたので、撥ねられた男は
「待て、こら!」
と一喝の声を上げた。
  その声に往来する人々も何事かあったのかと悟る者が多く、早くも運転手の轢き逃げを咎めて非難する言葉が飛び出していた。堪りかねた婦人は車から降り、男の元へ歩んで戻って行った。

  野次馬根性溢れる民衆たちは忙しない身の上も忘れて寄り集まり、その人数はまるで蟻が甘い物を探り当てたかのように増えた。撥ねられた男が倒れていた辺りにズラリ、また婦人の左右にもズラリと並び立ち、なんだなんだと押し合いへし合いしている。
  婦人は歩きながら帽子を取った。ハーフアップにした髪には、金七宝の玉の飾りがついた髪留め。高貴な顔には不似合いなほどに狼狽の色が見え、嵐に耐えて咲く花のようだ。何ともいたわしい顔だと、群衆は声には出さすとも心底そう感じたのである。

  この場からすぐ逃げ去ってしまいたい状況なのにも関わらず、帽子を脱いで近寄って行った彼女の恥ずかしさと切なさはどれほどのものだろうか。赤らめたその顔は隠しようもなく、それでも人垣を縫って急ぎ足で歩み寄る。
  帽子もステッキも抱えていた本も履いていた靴の片方も投げ散らかされていた中、彼は半ば身を起こして血が流れる右頬を掌で覆いながら、寄り来る婦人を眺めていた。
  彼女は彼の前に立つと、まず真摯にお辞儀をした。
「どうも、とんでもないことになりまして、なんとも申し訳ありません。あら、お顔が! 目の辺りをぶつけましたか。大丈夫でしょうか…」
「いや、たいしたことはないのです」
「そうですか。どこか身体が痛む箇所はありませんか」
  立ち上がれずにいる彼を、婦人はなおも気遣った。

  くだんの運転手も腰を屈め、婦人の後方から進み出て声をかけた。
「どうも、ダンナ、申し訳ない。どうか勘弁してもらって、大ごとにはしないでもらえませんか」
  視線を運転手に転じた彼は、特段怒りはしなかったが、厳粛な声で答える。
「お前はダメだ。事故をしたと思ったなら、なぜすぐに車を停めないのだ。逃げようとしたから呼びとめたんだ。お前の不心得がご婦人にも迷惑をかけて恥をかかせるのじゃないか」
「はい。すみません…」
「どうかお許しになってくださいね」
  婦人が遜って言葉を添えたからであろう、彼も頷いた。
「今後は気をつけなさい」
「はい…はい」
「じゃあ、もう早く行け」

  そして彼はおもむろに立ちあがろうとした。望外の赦しを得た婦人と運転手の喜びとは逆さまに、見物人たちの落胆ぶりはますます望外の結果になってしまった。彼らはプロローグから先に話が一向に進まない映画を見たような気になって、あまりにつまらないオチにがっかりしたのである。とっとと踵を返して立ち去る者も多かったが、それでも見応えのあるこの場面の様子に後ろ髪を引かれて、留まる者もいた。

  運転手は立ち上がろうとする彼を手助けし、靴とステッキを拾って渡した。婦人は帽子の汚れを手で払い、本を取り上げて彼に返した。さらに彼女は自らの帽子を運転手に託すと、念入りに彼のコートやパンツの土埃の汚れを払い始めた。
  赦されて罪は消えたとはいえ、まざまざと擦り傷が残った彼の顔を見てしまうと、やましさに堪え切れぬ彼女の心は、なおまだするべきことがあるにも拘らず身勝手に振舞っていやしないかと自省した。ここで彼を見捨ててはおけない。傷ましいとばかりに始めは眺めていた彼の顔。彼の眼差しはなかなか鋭く、疑うかのように怪しむかのように伏せ目がちになっては視線を投げかけつつ、居心地が悪そうに佇んでいたが、今となっては長居は無用とばかりに彼はよろよろと歩み出した。

  婦人はとにもかくにもそのままやり過ごしたが、何か思い直したのであろう。にわかに彼を追って呼び止めた。振り返った彼は曇った眼をキッと見据え、自分なのか他人なのか誰を呼んだのか訝しんで言葉を発しない。
「もしも人違いだったら申し訳ありませんが、あなたは、あの、もしかして荒尾さんではありませんか?」

振り返る女

「はっ?」
  彼は思わず身を捩じり、直立したステッキに身体を預けて、これは白昼夢なのかそれとも宙に浮かぶ幻の花なのか彼女の正体を見極めようした。しかし酒に酔った目では空しくも叶わない。
「荒尾さんでいらっしゃいますよね!」
「はあ。荒尾です。僕は荒尾ですが…」
「あの、間貫一をご存じでしょう?」
「おお、間貫一。旧友でしたよ」
「私は鴫沢宮です」
「何? 鴫沢…鴫沢の…宮さんですか?」
「はい。間の住んでいました家の鴫沢です」
「おお、宮さん!」

  奇遇に驚かされた彼の酔いは半ば消え去り、昔の面影を探し出そうと彼女の姿を眺めるばかりであった。
「お久しぶりでございます」
  お宮は喜んで彼の傍に近寄った。お互いに名乗り合い、今やお抱え運転手付きの車の主という立場でも路傍の酔っ払いという立場でもなくなったふたり。それぞれの心に思いが去来した。

  間貫一が鴫沢の家に居たころ、貫一は彼を兄のように慕ったものだ。彼らはまさに一心同体の親友だったのである。それどころか親友以上の親しみを持って、膝を交えて心から語り合っていた。
  その頃の彼らだって将来に起こる多少の変化を覚悟していたはずだろうが、さすがに今日の奇遇までを想定するはずはなかった。
  そうは言ってもかつて仲睦まじく交流していた者たちの、片や衣服を乱して道路端に酔い、片や高級車を乗り回して富に驕れる格差たるや。この格差だってそれぞれ自分が蒔いた種の結果ではあるが、ましてここまでの差ができるとは当時は全く夢にも思わなかったのである。想定外に起きた奇遇と夢にも思わなかった格差は、今こうしてふたりの眼前に突如露わになった。

  女の涙脆さか。お宮は早くも目を潤わせていた。
「まあ!随分お変わりになって!」
「キミも変わりましたね!」
  そう酷くも見えなかった荒尾の顔の傷だったが、恐ろしいまでにどんどん出血してきたので、お宮は持っていたハンカチを与えて拭いつつ、気が気でないとばかりに様子を窺った。
「痛むのでしょう? ちょっと待っててくださいね」
  彼女は運転手に何かを言いつけた。
「すぐこの近くに懇意の医者がいますから、そこまでいらっしゃってください。今、車を用意させましたから」
「いやいや、そんな大騒ぎするほどのことじゃない」
「危ないわ。それにたくさんお酒を飲んでらっしゃるみたいだし。とにかく車で向かいましょう」
「いや、結構、大丈夫。ところで、間はその後どうしていますか?」
  お宮は胸を刃物で貫かれたように感じた。
「そのことについても、色々とお話をしたいのです」
「しかし、どうしていますか? 無事ですか」
「はい――」
「いえ、決して無事ではないはずです――」
  生きた心地もせず恥じ慄くお宮の傍らに、運転手が車を横付けした。ようやく顔を上げてみれば、いつの間にか再び集まって来たのか周囲には人垣が出来ており、忌まわしくも巡査が怪しんで近付いて来るところであった。

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