カンタンに読める!金色夜叉/現代版

貫一を尋ねて来た客
その正体は…

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後編第5章-2-

 会いたくない訪問者

  戸口では付添人の婆さんが客人をここへ案内してきたらしく、入室を促すも、客人は年齢にそぐわず戸惑う素振りを見せていた。付添人に小声で要件を申し立てながら、彼は名刺を手渡す。
  満枝がどんな人が来たのかとチラッと視線を送れば、白髪混じりの髭は長く胸の辺りにまで垂れて、誠実そうな面差しは痩せ顔だが卑しくも見えない。背丈は高くないものの、元来太っていたわけではなさそうな肉づきは加齢によって自然と削れたらしく、冬枯れの山の峰が聳えているかのように見える。
  着衣ももちろん程よく高価なもので、満枝には彼が誰だか判らないけれども、疎かにはできない人物だと値踏みした。早々に客人の席を設けて待機している。

  貫一は付添人が差し出した名刺を受取って、何気なく眺めた。鴫沢隆三と記してあった。
  顔色を失った貫一。驚愕に耐えきれず、すぐさま身を翻してそちらを見ようとするが、ほぼ同時にまた枕に倒れこんで微動だにしなくなった。狂い出ようとする息を厳しく押し込め、怒りに燃える眼は名刺を凝視する。
  それでも心のうちに秘めていた無限大の思念を込めた一粒の涙が、不覚にも頬を伝うのだ。違和感を感じたのだろう、付添人は恐る恐る尋ねる。
「こちらへお通ししても…」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」

  人目さえなければ名刺なんか引き裂いて捨ててしまうのだが、貫一は汚らわしいと投げ返すのが精一杯だった。名刺は床の上に落ちた。
  彼はぎゅっと目を塞ぎ、震える身体を両手でしっかと抱きすくめた。恨みが忘れられなくとも怒りだけは抑え込もうと、鞭打つように自身を制するが、髪は逆立ちうごめく。脳に沸き煮えたぎる血は行き場を求め、彼の心を狂わせた。
  それでも彼は辛うじて狂気を抑え止めた。顔色は段々と悪化し、まるで灰のようだ。

驚愕の表情

  付添人は恐れた目線を客人に忍ばせ、再度貫一に尋ねた。
「ご存じない人なのでしょうか?」
「全く知らん。人違いだろうから、断って帰ってもらってください」
「そうですか。でも、あなたの名前を仰って尋ねて来られ…」
「ああもう、何でもいいから早く帰ってもらって!」
「そうですか。それではお断りしてきましょう」
  付添人は鴫沢の元へ向かい、その旨を述べた。貫一に投げ捨てられた名刺を返そうとしたが、隆三は腰に後ろ手をまわしたままで受け取らない。強いて柔和な顔を取り繕っているようだが、それも苦しげに見えた。

「ああ、そうですかい。知らないわけはないのだがね。ははは、だいぶ久しくしているから、忘れたのかもしれんね。それではよろしい、わしが直にお目にかかろう。この部屋は間貫一さんだね。ああ、それなら間違いない」
  そう言い終わると、隆三は椅子を置いてある方へ歩み進んできた。満枝は立ち上がって会釈し、席を勧めた。
「貫一、わしだ。久しく会わんから忘れてしまったかね」
  部屋の隅で付添人が茶の支度を始めたので、満枝も自ら向かって手を下し、あるいは指図をし、また自ら運んで客人に勧めた。彼女の動きを眺めていた隆三は、これはただの見舞客ではないなと、初めて彼女に注目した。
  貫一は我関知せずと言わんばかりに明後日の方を向いて、言葉を発しもしない。何か事情を抱えているのだろうが、相変わらず無愛想なことだと満枝は妙に可笑しく感じた。

「貫一よ、わしだ。早くに訪ねたかったんだが、何しろ居所がさっぱり判らんかったからね。一昨日、ふと聞きだしたのを幸いに、とりあえずこうして出向いてきたんだが、具合はどうなんだい。何か、大怪我だそうじゃないか」
  それでもなお貫一は返事をしなかった。無視する態度を腹立たしく感じつつも、満枝が居ることを幸いに隆三は彼女に尋ねる。
「眠っているのかね?」
「はい。どうでしょうかねえ」
  彼女は隆三が困惑しているのを見るに見かねて、貫一の枕の側に近寄って窺ってみた。彼は涙顔を布団に擦りつけ、せき上げるように肩で息をしていた。何事かと驚いた彼女だったが、顔には出さず、怪しんだ風情を口にもせず、なんら動揺の色がない振りをして彼に告げた。

「お客様がいらっしゃいましたよ」
「今も言った通り、全く知らない人ですので、お帰りいただいてください」
  彼は顔を伏せたまま、再び押し黙ってしまった。満枝は早々と彼の意を察した。多くを問わずにそのまま席に戻り、隆三に向き直る。
「お人違いではございませんでしょうか。どうも覚えがないと言っておりますし」
  長い髭を押し揉みつつ、隆三はどうしようもない気分で苦笑した。
「人違いなんてとんでもない! 五年や七年会わずとも、わしは耄碌なんかしていない。しかし覚えがないと言われてしまえば、それまでの話だが、わしにはきっちり覚えもある。人違いでもないと思うからこそ、こうしてせっかく会いに来たというものだ。老人のわしがわざわざこうして出向いたのだから、そこに免じてちょっとでも会ってもらいましょう」
  こうまで言えば何か挨拶の言葉でもあるかと待ってみたが、貫一は音すら立てやしない。

「それじゃ何かい。こんなに言っても知らぬ存ぜぬで通すつもりかい。ああ、そうかい。ならばしょうがない。
  しかし貫一よ、よく考えてみるがええ。まあ、わしらのことをどう思っているのかは知らんが、お前のこれまでのやりかた、それに今日の対応ってものは、ちょっと穏やかではないのではないかい。とにかくも、鴫沢の親父に対しての対応というものは、こうしたものではないはずだと思うのだが、どうだろうね。

  なるほど、お前にも言い分はあるだろう。それも聴きに来た。わしの方にも多少は言い分が無いわけではない。それも聴かせたい。しかしこうしてわざわざ尋ねて来たのだから、こちらとしては既に折れて出ているのだよ。
  それにお前に会って話したいことというのは、決してこちらの身勝手を言いに来たわけじゃない。やっぱりお前の身の上について、善かれと思う老婆心から話したいことがあるのだ。わしの方ではその当時だってお前を捨てた覚えはないよ。そして今日だって五年前と同じ考えでいるのだよ。
  それをまあ、若い人の血気と言うのかね、ただただ一途に思い込んで誤解を生じたのか、わしは全く残念でならんのだ。まして今日までも誤解され続けているのはいよいよ心外なので、お前の住所が判明したから早速足を運んで来たのだよ。
  それにこちらの考えを誤解されたままということほど心苦しいものもない。人のためと思ってやったことが、こんな風にわずかの行き違いから恨みを買うことになった。恩に着せようと思ってやったことではないけれど、恨まれようだなんて誰だって思いやしないだろう。

  で、わしらは、ああして仲睦まじい家族だったわけで、死に水を取ってもらうつもりですらあったものを、僅かな行き違いで音信不通になってしまうというのは、何とも浅ましいことじゃないか。わしも全く寝覚めが悪い。
  実際、妻とも言い暮らしているのだ。わしとしては、やはり元通りになってもらって、早く隠居でもしたいのだ。しかしそれもお前の誤解が解けない限りは話ができない。
  その話は二の次としても、差し当たって誤解していることをまず先に何とかしたい。直接会って真摯に話をすれば、直に訳も判るようになると思うから、是非ひととおりは話を聞いてもらいたいんじゃ。その上でも心が解けないのなら、そこでおしまいだ…

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