カンタンに読める!金色夜叉/現代版

隆三の心からの説得は
果たして無に帰するのか?

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後編第5章-3-

 機転

  わしはな、お前の親御さんの墓に参ってだ、そもそもお前を引き取ってから今日までの有様を報告したいんだ。
  鴫沢はこれこれの事をこうこう思っております。けれども成り行きでこんな結果になってしまいました。残念なことだが致し方ないのですと、ちゃんとお断りをしてだな、わしはわしとしての筋を通してから立派に縁を切りたいのだよ。なあ。
  早や五年も便りを寄越さなかったんだから、お前はもう既に縁を切ったつもりなのだろうが、わしの方では未だ縁は切れてないんだ。

  わしもわしなりに考えたさ。例えばだ。この鴫沢の親父がしたことは、不都合なことだったかもしれない。けれども間貫一という人間は、たった一度の不都合くらいはどうにか我慢をせねばならんのじゃないかと思うんだ。
  もしくは我慢がどうにもならんのであればだ、もう少し穏便に事を運んでもらいたかったよ。わしの方にも言い分があると言ったのはそこじゃ。
  言わせればわしにだってこの通りに言い分はある。でもそんな事を言いに来たのではない。わしの方にもなにぶん手落ちがあったんだから、その詫びもしよう。それに昔も今もこちら側に心変わりなんてないのだということを、第一に知らせたかったんじゃ。
  年寄りが久しぶりに会いに来たんだ、なあ。貫一よ、今日は何も言わず会ってくれないか」

  初めて耳にする貫一の身の上の秘密に、満枝は強く興味を惹かれて耳を傾けた。
  我を張った貫一の無言を貫く姿勢にさすがに痺れを切らした隆三は、やにわに椅子から立ち上がり、強いてでも彼の顔を見ようと歩み寄った。
  満枝に事の原因は知りようもないものの、この客人が言葉を尽くして語る内容には道理が通っている。それだけに無下にもできないが、貫一はただただ涙を流して一言も発さず、よくよく見知った人を見覚えがないと言い張っているではないか。その姿にも、なにかしら深い理由があるのだろうと推し量られ、一も二もなく満枝は恋する相手に味方して、この窮地を救おうと思い立った。

  隆三が貫一の枕元を窺いつつ、眉間に皺を寄せて何か言葉を発しようとするのを制して、満枝は声を掛けた。
「私、看病に来ている者ですが、どなた様かは存じ上げませんけれども、一両日ほど病人は熱で終始朦朧としている状態でして。時々うわごとのようなことを申しまして、泣いたり怒ったりするのですよ…」
  頭を捩じり向けて満枝と相対した隆三の表情は、ことさらに合点が行ったという色を見せた。
「はあ。そ、そうでしたか」
「先程からのお話をお伺いしております限りでは、年来懇意にされてらしたとか。それを人違いだとか申しまして、大変失礼致しました。
  それでもやはりこの通り熱の加減で前後不覚の状況ですので、どうかお気を悪くなさいませんよう。この熱もじきに下がるでしょうから、それからまた改めてお出でいただければと存じます。今日のところは私がお名刺をお預かりしておきますので、体調が戻り次第、私から詳しくお話を致しますわ」

「はあ。それはそれは」
「実は、何と言いましょうか。昨日もお見舞いにお出で下さった方に変なことを申してまして。なんとも病気のせいですから仕方ありませんが、私、弱ってしまいました。
  今日はまたどうしたものか、昨日とはまるで正反対で、あの通り黙りきっているのですけれども。それでも却って無闇な事を口走るよりかはマシだと思っているくらいですの」
  こんな態度でもまだマシなのだと聞いて、隆三は顰めた眉を強いて和らげて笑みを浮かべる。満枝も遂行すべきを言い終えた喜びからか、にこりとほほ笑んだ。彼女は付添人の婆さんを呼んでお湯を換えて貰い、さらに熱い茶を隆三に勧めて、再び彼を着座させた。

茶

「そういうことなら仕方ないですな。ではまた来ることにしましょうかね。わしは鴫沢隆三と言いまして――名刺を差し上げておきましょう――あなたは失礼ながら、鰐淵さんのご親戚か何かで?」
「いえ、親戚ではありませんが、鰐淵さんとは父が懇意にさせていただいております。それに自宅がこの近所ですもので、ちょくちょくお見舞いに伺ってはお世話をさせていただいているのです」
「ははあ、そうでしたか。わしは事情があって五年ほど貫一とは会ってませんでな。なにやら、去年あたりに嫁をもらったと聞いたんじゃが、どうだったかな」
  隆三はこの美しい看病人の素性知りたさに、ありもしない質問をぶつけだのだった。
「そのような事は、全く存じませんが」
「はて。そうだとばかり思っていましたわい」

  見たところ独身の娘というわけでもなさそうだし、誰かの妻だという感じにも見えない。おまけにキラキラと着飾った姿は、夜の商売でもしているのだろうかと疑わしくもあるが、言動や行儀から察するにそうでもなさそうだ。一体彼女は何者なのだと考えるも、隆三は全く推理しかねた。
  しかしながら懇意にしているだとか、世話をしているだとか、そんなものは皆嘘っぱちだろうと考えたのである。
――まともな筋の知り合いではなく、独身の娘という感じでもない。おまけに貫一の妻でもないのならば、それはもう何か深いワケのある関係に違いないわい。もしそうなら、貫一はその身の境遇とともに堕落して根性も腐敗し、品行も下劣になってしまったのだ。わざわざそんな男との古い縁を、好んで繋ぎ止めておく必要はあるまいよ。こんな男を鴫沢の家に出入りさせては、いずれ不慮の災難を招くに違いないからな――
  隆三は心中俄かに怖れを感じた。
――だったら貫一が恨み深く口を利かないのを良いことに、今日はひとまず退却だな。もう少し念入りに調査すべきだろう。うんと熟考してから再訪したって遅くはあるまい――
  失望の中にも幾らかの得る物を感じて密かに満足したのである。

「いやいや、これはどうも図らずもお世話になりました。いずれまた近日改めてお目にかかりましょう。失礼ながらお名前をお聞かせ願っても宜しいかな」
「はい、私は――」
  満枝はハンドバッグから名刺入れを取り出して、一枚を渡した。
「――甚だ失礼いたしました」
「いやいや。これはこれは。赤樫満枝さまと仰るのですね」
  満枝に対する隆三の疑念はますます色を深めた。夫がある身の主婦が自前の名刺を持ち歩いているのも似つかわしくない上に、まして名刺の裏面は英字が印刷されていたのだ。
  応対も手慣れていて、しとやか。服装もハイクラスなオートクチュールなのだろう、流行を取り入れつつ気品もおざなりにされていない。もしかすると海外を飛び回る仕事でもしているのかもしれないが、その極度の美麗な姿はこの場に相応しくないようにも感じられた。ひとつの摩訶不思議なナゾだ。
  隆三は貫一から受けた冷遇に腹を立てることも忘れて、このナゾに首を傾げながら病院を退出した。

  客人を送り出した満枝が再び室内に戻ってみれば、貫一はベッドの上に居丈高に起き上がっていた。痩せた拳を握りつつ舌打ちをし、言えずに我慢していた無念がこみ上げる中、ひとりじっと一点を凝視していた。

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