カンタンに読める!金色夜叉/現代版

訪ねて来た母に
思わず打ち明けるお宮

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後編第3章-2-

 吐露するお宮

  ヒマを持て余す身の上だったので、お宮は毎月のように実家に戻っては両親を見舞い、母も同じように彼女のもとを訪ねていた。母にとってはこの訪問が隠居生活のこの上なき楽しみでもあった。
  まったく女親にとって、娘が嫁に行き、その家が栄え、心身安泰にしかも大層出世した姿を見ること以上に幸せなことはないであろう。母は彼女の顔を見る度に、まるで大きな手柄でも立てたかのような気持ちになるのだ。なんたって自分の周りの親という親は、皆才覚がなくて幸薄く、まったく気の毒なありさまだったから。その点自分はと、つい誇らしげになってしまうのである。
  そんなわけで毎月富山家の門をくぐることは、まさしく母として成功した凱旋門をくぐる心地さえするのであった。

  懐かしさと嬉しさと、なおまだもうひとつの気持ちを携えて、母はいそいそと屋敷の奥に導かれた。
  長らく引き籠って話し相手を欲していたお宮は、救いを得たような気になった。あるまじきことか、もしや密かに貫一の報せを持って来てくれたのではなかろうかと、突拍子もない望みをかけ、せめて憂いで塞がった胸を母の前でしばらくの間でも解き放ちたいと思うのだった。

  母は話そうと心積りしていたあれやこれやを押し退けて、まずはお宮の顔色がすこぶる良くない点を問い詰めた。同じことを夫にも言われたとお宮は思い返しつつ、それほどまでに面窶れしてしまったのかとドキリとする。
「そう? でもどこも悪くはないの。余り身体を動かさないから、そのせいかもしれないわね。けれど、このごろは時々気が塞いで塞いで堪らないことがあるのよ。ホルモンバランスのせいなのかしら」
「ああ、そうよ。私なんかも持病でそうなるもんだから、やっぱりそうなのよ。それでもそれで痩せるようでは良くないから、お医者さんに診てもらうのが良いわ。放置しておくと慢性化するって」
  お宮は頷いた。そこへふと思いがけなく閃いたのだろう。母はさも慌ただしげに言葉を継いだ。
「二人目が出来たんじゃないの?」

  お宮は笑みを浮かべた。しかし例の恥ずかしさを隠す笑みではなく、困った感情を仄かに携えた微笑だった。
「そんなこと、あるわけないわ」
「そういつまで経っても音沙汰ないようでも困るじゃないの。本当にまだおめでたの兆候はないの?」
「ないわ」

「ないことを偉そうに言うなんて。子のひとりくらい無くてどうするって言うの。将来を考えてごらんなさい。後悔するから。本当ならふたりくらい子があったって良い時分なのに、あれっきり後が出来ないところを見ると、やっぱり身体が弱いのね。今のうちに養生して丈夫にならなきゃいけないよ。
  お宮はそうやって平気な顔して、いつまでも若いままで居る気なのだろうけれど、富山の方じゃまだかまだかってどんなに待ち兼ねていらっしゃることか。うちだってお父さんが『お宮はどうしたって言うんだろう。情けない娘だ。子を産めないのは女の恥だ』ってカンカンになってるくらいなのよ。
  なのに当のお宮がいやに落ち付いているもんだから、憎たらしくもなるってものよ。大体お宮は子供好きだったじゃないの。そのくせ、自分の子は欲しくないの?」

  お宮もさすがに当惑した。
「欲しくないことはないけれども、出来ないモノはしょうがないじゃない」
「だから何としても養生して、身体を丈夫にするのが第一なのよ」
「身体が弱いって言うけれど、自分では別段どこか悪いって思うところもないから、診てもらうのも変でしょ…
  でもねお母さん。実は前から言おう言おうと思っていた気に掛かることがあってね。それで始終何だか気分が塞いじゃうのよ。そのせいで自然と身体も良くないんじゃないかしらって思うのよ」

  母は目を見張り、胸が潰れた思いで膝を突き出した。
「どうしたの!」
  お宮は俯いた顔を寂しげに起こした。
「私ね、去年の秋、貫一さんに遇ったの…」
「何だって…!」
  聞くのを憚られる秘密に接するかのように、母は声を潜めた。四方に聞き耳を立てている者が無いか窺うような用心深い気配で。
「どこで?」
「うちへも全くあれから連絡がないの?」
「そうよ」
「ちっとも?」
「そうよ」
「どうしているというような噂ですら?」
「そうよ」

  こう僅かに答えるだけで、母は内心に湧き上がる万感の渦に吸い込まれて行った。
「そう? お父さんは内緒で何か知っているんじゃないの?」
「いいえ、そんなことはないわ。どこで遇ったの?」

夜の街を歩く貫一

  お宮は事のあらましを語った。話を聞く母は、彼女が何事もなくその場から逃れることが出来たという結末まで聞き終えて、ようやく初めて肩の荷が下りたかのようにホッと安堵の溜息をつく。
  次いで熱海の梅園で脂汗を搾られた居心地の悪さを思い出し、辛い思いを重ねたお宮の不幸な出来事を、不憫だともいじらしいとも、今更ながらに心を傷めた。
  けれども過ぎ去ったことよりも、それがお宮の将来に大きな障害になり得る恐れを案じ、母の心はなかなか落ち着かない。

「それで、貫一さんはどうしたの?」
「お互い、知らん顔をして別れてしまったけれど…」
「ああ。それから?」
「それっきりなの。でも気になってしまって。貫一さんがね、出世して立派になっていたのならそうも気にはしないわ。でも着ているモノも粗末で、何だかかなり窶れてて。私もきまりが悪かったから、じっとは見なかったけれど、気の毒なくらいにみすぼらしい感じだったわ。
  それに、聞けばね、五番町の方の鰐淵とかいう、土地とか不動産とかを扱う人に使われて、そこに暮らしてるって話だから、やっぱり苦労してるんだわ。
  ああして幼いころから一緒に居た人が、あんなになっているかと思うと、昔のことを考え出して私は何だか情けなくなるの…」
  お宮はブラウスの袖でそっと瞼を拭った。

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