カンタンに読める!金色夜叉/現代版

貫一と鴫沢の実家の仲直り
お宮が望むのはそれのみだが…

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後編第3章-3-

 平行線

「良い気持ちはしないわよね…」
「へええ、そんなことになっていたの」
  母の顔色も異様に青ざめたかに見える。
「それまでだって貫一さんのことを思い出さないことはなかったけれど、去年遇ってからは毎日のように気になってね。嫌な夢も度々見るの。お父さんやお母さんに会う毎に『今度は話そう』『今度こそは話そう』と思いながらも、私の口からはなんとなく話しにくくて今まで話せずにいたのよ。
  それが始終苦になって気分が落ち込むものだから、身体にも障るのじゃないかしらと思ったりするのね」
  思いを凝らすかのように母はどこかを見据えながらも、言葉もなく頷いた。

「それで私はね、お母さんに相談して、貫一さんをどうにかしてあげたいの――
  あの時にあの話もあったじゃない。やっぱり鴫沢の跡は貫一さんに継がせてほしいの。そうじゃないと私の気が済まないわ。今までは行方不明だったからどうしようもなかったけれど、問い合わせればすぐに判る場所に居ることが判った以上、それを放っておくのは良くないわ。お父さんにでも貫一さんに会ってもらって、何とか話をつけるようにしてもらえないかしら。
  それでこれまでどおりに家で世話をして、どうしてでも貫一さんの初志を達成できるようにして、立派に跡取りにしてやってほしいのよ。そうすれば私だって兄妹の絆がしっかりできるんだから、いつまでも実家の兄として頼りにできるでしょ」

  お宮のこの言葉は決して自分自身の心を欺いたものではなく、また敢えて他人を欺こうとしたものではない。影のように儚く隔てた恋人として遠い場所から想うよりは、他人を娶ってでも身近な場所に居てくれたほうが、どうせ受けねばならない同じ苦痛であるならば、まだマシなのだと心から願っていたのである。
「それはそうかもしれないけれど、ちょっとどうかと思うわよ。あの人のことなら家でも時々話が出るの。どこでどうしているのかしらって心配しないでもないけれど、お父さんもよくこう言ってるわ。
『どんな理由があろうが、余りにも貫一の仕打ちは酷い』って。確かにお宮との約束については、それを破ったのですから、思慮の浅い若者ゆえに腹だって立つでしょう。立つでしょうけれど、自分の立ち位置というものをちょっとは考えたらどうなのって思うのよ。
  子供のうちからああして世話になって、全て我が家のおかげでともかくああまでなれたんじゃないか。その恩を顧みれば義理の心も湧きあがって当然。そこをちょっと考えれば、あれっきり家を出てしまうなんて、あんな面当てがましい真似をできるものかしらね。

  大体あの約束を破った上に、もう貫一さんには用はないからどこでも行ってひとりで勝手に生きるが良いなんて不人情なことを、私たちがしたわけじゃないじゃない。鴫沢の家は譲るでしょうし、本人が望むなら留学だってさせようとまで言っているのに。
  それはまあね、一時は腹だって立つでしょう。でもよくよく考えてみれば、まんざら悪い話でもないのに。私たちの顔を立ててくれたって、そんな罰は当たりはしないと思うのよ。だからこそおまけにお父さんから充分に理由を話して、頭を下げる真似までして頼みこんだのよ。
  だからこっちには少しの非がないのに、貫一さんが余りに身の程知らずなのね。

  そりゃね、お父さんが昔貫一さんの親御さんの世話になったそうだけれど、その恩返しならば、行き場のない彼を十五のときから引き取って、大学院に通わせるまでに仕上げたんですから、それでもう充分じゃないの。
  要は貫一さんのやり方っていうのは、あまりに図に乗っているの。だからお父さんだって私だって、あんなことをされてしまった以上は決して良い気持ちはしないものよ。今更こっちから彼を捜し出して、とやかく言わねばならない義理なんてないってこと。だってあんまり筋道が通らない話でしょ?」

  その筋が通らぬ話以上に、彼を嫌い、恐れ、警戒する理由なんてないのだと母は思っていた。
「お父さんやお母さんの身になってみれば、そう思うのも無理はないわ。でもこのままじゃ私の気が済まないのよ。今になって考えてみると貫一さんが悪かったわけじゃなし、お父さんお母さんが悪いわけじゃなし、ただただ私一人が悪かっただけ。貫一さんにはお父さんお母さんを恨ませてしまうし、お父さんお母さんには貫一さんを悪く思わせたのだから、やっぱり私が間に入って、元の鞘に納めなければならないと思うの。
  貫一さんが悪かったことは、どうか私に免じてこれまでのことを水に流してしまって、改めて貫一さんを家の養子にしてほしいわ。
  もしそうなったら、私もそれで肩の荷が下りて、きっと身体も丈夫になるに違いないの。だから是非にもお父さんに頼んでもらえないかしら? ねえ、お母さん。そうしてくれないと、私はますます身体を悪くするわ」

  言うべきことを言いきったお宮の胸は、ここにことごとくその罪を懺悔したかのように、多少はすっきりとした気を覚えた。
「そこまで言うのなら、帰ってお父さんに話をしてみるけれど、何もそのせいで身体が悪くなるなんてこと、あるとも思えないんだけれど」
「いいえ、そのせいなの。いつだってそればっかり苦痛になって、時々考え込むと実に耐えがたい気持ちになるの。この間遇うまではそんなでもなかったのに、あれから急に――そうね、何と言ったら良いのかしら――私が貫一さんをあんな不幸せな身にしてしまったのかと思ってしまって、さぞかし私を恨んでいるだろうと、気の毒なような恐ろしいような。
  それになんとなく悲しくて。他には何も願うことはないから、どうかあの人だけは元のようにして欲しいの。あの優しい気立ての人に末長くお父さんやお父さんの面倒を見てもらえたら、どんなに嬉しいか――
  そんな事ばかり考えては塞いでいるの。いずれ私からもお父さんに話をするけれど、差し当たってお母さんからよく言って頼んでもらえないかしら。私も一両日中には帰るから」
  しかし母は首を傾げる。
「私の考えじゃ、どうも今更って感じがするんだけどね…」

困る女性

「お母さん! 何もそんなに貫一さんを悪く思わなくったって良いでしょう。せっかく話をしてもらおうと思っているお母さんがそんな具合じゃ、とてもお父さんが承知なんてするはずないわ――」
「お宮がそこまで言うのなら、私だってイヤだとは言わないけれど…」
「いいの。イヤなのよ。お父さんもやっぱり貫一さんが憎くてイヤでしょうがないんでしょうから。私がいくら望んでも無駄なのよ。どうせ無駄なのよ」
  涙ぐみつつお宮が零すので、母は戸惑った。
「まあ聞きなさい。それはね――」
「お母さん、もういいのよ、無駄なんだからいいの」
「良くないわよ」
「良くなくてもいいの」
「ああ…ええと…そうねえ」
「どうせいいのよ。私のことなんてどうだっていいの…」
  思いがけずほとばしる涙を袖で拭ったお宮だったが、涙はとめどなく零れた。

「何も泣くことはないじゃないの。おかしな子ねえ。お宮の言い分は判ったから、家に帰ってよく話をした上で、ね?」
「もういいわ。それならそれで私にも考えがあるから、私のやりたいようにやることにする」
「自分でそんな事をするなんてダメよ。こういうことはお宮がどうこうするべき問題じゃないのだから、それはダメ」
「……」
「帰ったらお父さんによく話してみるから――泣くほどのことじゃないんだから」
「だからお母さんは私の気持ちが判らないのよ。頼み甲斐がないってもんだわ」
「いくらでもおっしゃい」
「言うわ」
  真顔を作った母が手にしていたティーカップをソーサーに戻したのと同時に、香立ての香の灰がぽろりと落ちた。

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