カンタンに読める!金色夜叉/現代版

直道の必死の訴えに
父はどう応えるか?

目次 > 後編 > 第1章 1 / 2 / 3

後編第1章-3-

 衝突の行方

  全く動じる気配のない直行は、却って微笑を帯びた顔つきで柔らかく返事をする。
「俺の身を思ってそう言ってくれるのは嬉しいけれども、お前の考えは杞憂ってものだ。俺と違ってお前は神経質だから、そんなふうに思うのだろうが、世間っていうものはな、お前が考えているようなものではない。学問に凝り固まった頭脳で実業家の仕事を責めるのは、そりゃ駄目だ。
  人の恨みだ、世の謗りだと言うけれども、我々同業者に対する人の恨みなんてものは、銘々の自分勝手な愚痴でしかないもんだ。世の謗りにしたって、多くは妬みの心。その証拠に働かない者が貧乏暮らしをしていれば、哀れに思われるだろうさ。どんな家業にしたってカネを稼ぐヤツは必ず世間から何かと攻撃されるものよ。そうだろう? 金持ちで評判が良い者なんて一人もいやしない。その通りじゃないか。
  お前は学者だから自ずから考えも違っていて、カネなんぞをそう大切なものだと思っていない。学者はそうあるべきだろうけれど、世間は皆学者ってわけじゃないんだぞ。いいか。実業家の精神たるものは、ただただカネだ。世の中の人たちの欲も金銭欲に勝るものはない。それほどにな、皆が欲しがるカネだから、何かよほど惹きつけられる利点があるはずだ。でもどこがそんなに惹きつけられるのか、なぜそんなに好まれるのか、学者には理解できんのだよ。

  お前は自分が暮らせるだけのカネさえあれば、その上を望む必要はないと言うけれども、それが学者の考えだと言うのだ。自分自身に充分な財があればそれで良いと満足してしまって手を退くような了見なら、国はたちまち滅んでしまう。社会の発達はそこで止まってしまうんだぞ。
  そうして国中が若隠居ばかりになってしまえば、お前どうするんだい。な? 欲に限度がないことが国を活かす生命線なんだ。

  俺がそんなにカネを拵えてどうするんだってお前は不思議に思っているようだけれど、俺はどうもしない。カネは余計にあるだけ愉快な存在なんだから。つまり、カネを拵えることこそが一番面白いんだ。お前が学問するのを面白いと思うのと同じで、俺はカネを稼ぐのが面白い。お前にな、『本をもう読むのはやめなさい。一人前の学問を修めたのなら、その上を望む必要はないだろうに』と訊いたら、お前は何と答えるつもりだよ? な?
  お前はよくこの家業を不正だの、汚らわしいだの言うけれど、カネを稼ぐのに君子の道を進んでゆく商売がどこにあるのか。俺たちが高利のカネを貸す。うん、確かに高利だ。なぜ高利なのか? いいか、それは無抵当だからだ。借り手に無抵当という利便を与えるから、その利便に対する報酬として利子が高いんじゃないか。
  それに俺たちは決して高利を低金利だと偽って貸したりはしないんだ。無抵当で貸すのだから利子が高い。それを承知で皆借りるんじゃないか。それのどこが不正なんだ。何が汚らわしいんだ。利子が高くて不当だと思うのなら、最初から借りなければいい。そんな高利のカネを借りて急場を凌がねばならない困難がたくさんある今の社会でだ、闇金を不正だって言うのなら、その不正の闇金を作った社会が不正だろうに。
  必要だから借りる者がいて、貸す者がいる。どれだけ貸してやりたくとも、借りる者がいなければ、俺たちの家業は成り立ちはしないんだ。そのニーズを見込んで仕事をするというのが、つまり営業の基本ってものだ。

  カネってものは誰もが愛して、皆掴もうと思っている。得たら離すまいとする。だろう? そのカネをだ、人より多く持とうと言うんだから、当たり前の手段では上手く行くものではない。合意の上で貸し借りして、それで儲けるのが不正だと言うのなら、全ての商売は皆不正じゃないか。学者の目から見れば、金儲けする者は皆不正なことをしてるんだ」

  いたくもこの弁舌に感じ入った彼の妻は、しばしば直道の顔を盗み見て、彼の理論もこれで封じられ、厄介な口論が再発しなくなるかもしれないと期待して密かに喜んだ。
  ところが直道はまず厳かに首を振って応える。

  今回、間が災難に遭っただろう。あれは相手が二人がかりで、しかも不意打ちを喰らわせたのでしょう? 父さんはあの所業をどう考えるんだい。男らしいやり方だと思うのかい。卑劣極まるヤツだと、さぞ無念に思うだろうに?」

  彼は声を張り上げて迫った。けれども父は余所見をするだけで何の答も発しなかったので、彼は再び声を鎮めて問う。
「どうなんです?」
「もちろん」
「もちろん? もちろんでしょうよ! どこの誰か知らないけれど、実に汚い根性、下等なヤツらだ。しかし、恨みを晴らすという点から言えば、ヤツらは立派に目的を果たしたんだよ。そうだろ? たとえその手段が卑劣であっても」
  父は騒がず、笑みを浮かべて髭をまさぐった。

「卑劣と言われようが汚いと言われようが、思いどおりに恨みを晴らしたヤツらは、目的を達してさぞ満足しているだろうね。それを掴み殺したいばかりに悔しく思うのは我々だけだ。
  父さんの営業の主意も彼らのやりかたと少しも違わないじゃないか。間のことについて無念だと父さんが思うのなら、父さんからカネを借りて苦しむ者はやはり父さんを恨まざるを得ないんだよ」
  またしても感じ入ったのはお峯であった。こうなってはどんな言葉で夫はこれに返すというのだろう。この理屈はあまりにも真っ当で自分ですら何も言い返しようがないではないかと、ハラハラしつつ夫の顔色を密かに窺った。
  夫は落ち着いた様子で、却って我が子の雄弁を心で愛でるような表情さえ作って、微笑を浮かべているだけであった。しかし彼女はよく判っていた。彼が微笑を作るのは、普通の人が微笑する意味とは異なることがままあるのだ。それが今なのかどうかと、お峯は疑う。

  蒼くやつれた直道の顔は忌まわしくも白く変わり、声は甲高く細くなって、膝に置いた拳はしきりに震えていた。
「いくら論じたところで、結論は判り切っているからもう言わないよ。言えば父さんの気持ちを不快にさせるに過ぎないんだ。しかしこれまでも度々言って来たし、また今日こんなに言うのも全ては父さんの身を案じるからだよ。これに関しては陰で俺がどれほど始終苦心しているのか知らないだろうけれど、考え出すと勉強するのも何もかも嫌になって、ああ、いっそ山の中にでも引き籠ってしまおうかと思うほどさ。
  父さんはこの家業を不正ではないと言うけれども、実際世間では地獄の門番かのように憎み賤しんで、付き合うことを恥としているじゃないか。世間なぞ構うものかと父さんは言うだろうさ。でも闇金の息子としてそれを聴かされる心苦しさも察してもらいたいよ。父さんが意に介しないその世間だって、やっぱり俺たちが渡って行かねばならない世間なんだ。その世間で片身が狭くなって、ついには居場所がなくなってしまうというのは、男として面目が立たない。俺はそれが何よりも哀しいんだ。
  こっちに正義があって、それが世間と衝突してそのために憎まれるとか捨てられるとかいうのなら、世間が俺を捨てたとしても、俺は喜んで父さんと一緒に受け入れるつもりだよ。親子で捨てられ道端で餓死するのを、俺は親子の名誉、家の名誉だと思うからだ。
  しかし今、俺たち親子が世間から疎まれているのは自業自得の結果であり、不名誉の極みでしかないんだよ!」

泣き咽ぶ姿

  その両眼は痛恨の涙を浮かべ、彼は思わず父の顔を睨んだ。直行は変わらず嘯(うそぶ)いたままだ。直道は今日を限りと決心したかのように、堰き止める術がないままに言葉を連ねた。
「今度のことを見たって、いかに間が恨まれているかが判るだろ? 父さんの代理の人間でさえ、あのザマじゃないか。そうなると父さんが受けている恨み、憎しみはどれほどのものか言うのも憚られるくらいだよ」
  父は言葉を遮った。
「よし、判った。よく判った」
「では俺の言ったことを受け入れてくれると?」
「まあいい、判った。判ったから…」
「判ったと言うからには、受け入れたということだよね?」
「お前の言うことはよく判ったさ。しかしお前はお前、俺は俺だ」

  直道は堪えかねて、ひしと拳を握った。
「まだ若い若い。書物ばかり見ているようじゃダメだ。少しは世間も見ろ。なるほど、子の情けとして親の身を案じてくれている。その点はありがたいもんだ。お前の気持ちも察した。意見も判った。
  しかし俺は俺でまた、自らの信じるところがあってこうやっているわけだから、折角の忠告だからといって枉(ま)げてしまうわけにはいかんのだ。な? 今回、間があんな目に遭ったから、俺が尚更酷い目に遭うと言って心配してくれているんだろ? な?」
  もはや何を言っても無駄だと観念して、直道は口を開かない。
「そりゃありがたいことだが、まあ、当分俺の身体は俺に任しておいてくれ」
  彼は静かに立ち上がった。
「ちょっとこれから行かねばならない所があるから、お前はゆっくりして行くがいい」

  そそくさとコートを手に出て行った後から、帽子を持って見送るお峯。そっと行先を問い質してみれば、彼は大きな鼻を皺めて、
「俺が居ると面倒だから、ちょっと出て来る。良いように言って帰してくれ」
  と答えた。
「ええっ、それは困るわ。あなた、私に押しつけてそれは困るわ」
「まあ、いいじゃないか」
「良くないわ。私が困るのに」
  お峯は地団太で迷惑を訴えた。
「お前は別に困ることなんてなかろう。それにあいつもすぐ帰るだろうしな」
「それじゃ直道が帰るまで、居てあげてよ」
「俺が居たら帰らんじゃないか。早く戻って」

  さすがに争いかねたお峯が渋々佇んでいたのを良いことに、振り返りもせず直行はまっしぐらに門を飛び出して行った。お峯は直道の激情を恐れ、先ほどにも増して責め立てられるに違いないと思うと、虎の尾を踏む心地で居間に戻る。
  見てみれば直道は手をこまねいた様子で、頭を垂れてただ憮然と座っていた。
「そろそろお昼だけれど、何か食べるかい?」
  彼は身じろぎもしない。重ねて名を呼ぶとようやく覚束なく顔を上げた。
「母さん!」
  そのどうにもならない声が、言い知れず母の胸を刺す。彼がまだ幼いころ、よく病気になって枕元で看病したときの気持ちを、お峯はふとそのまま思い出した。
「それじゃ、俺はもう帰るよ」
「あれ、まだいいじゃないかい」
  急に名残惜しくなったお峯は、なんとか引き留めたいという気持ちになった。
「もうお昼なんだから、久しぶりに家で食べて行けばいいじゃない…」
「飯なんて喉を通らないから…」

続きを読む