カンタンに読める!金色夜叉/現代版

真人間の鰐淵の息子が
実家に戻った理由

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後編第1章-2-

 息子の訴え

  お峯は彼の一念に脅かされ、背筋にうっすら寒気を感じた。直道は鼻をかんで、再び言葉を継ぐ。
「でも俺のやったことは、褒められたものじゃない。父さんにだって言い分はあるってことは、俺にも判るよ。父さんの家業が気に入らん、言っても聞かない、こんな汚れた家業をしているのを見ているのはもうごめんだと、親を捨てて家を出ているというのは、確かに情けない話だ。ホント俺も心苦しいよ。
  これは子が本来進むべき道ではないんだ。親不孝者だと、父さんも母さんもさぞかしそう思っているはずさ」
「そうは思いはしないよ。直道にも理はあるのだから、そうは思いはしないけれど、でも一緒に住めたらなお良いだろうと…」
「それは俺だって、なおのことそうさ。こんな家にいるのはイヤだ、家を出て一人で住むとワガママを言って、どうなりこうなり自力で暮らしていけるのも、それまで教え育ててもらったのは誰のおかげかと言えば、皆親の恩だよ。それもこれも判っていながら、父さんを足蹴にするような振舞いをするのは、母さん、よくよくのことだと思って欲しいんだ。
  俺は親に逆らっているんじゃない。父さんと一緒に住むのがイヤだということではないけれど、俺は闇金なんていう賤しい家業が大嫌いなんだ。人を悩ませて私腹を肥やす――浅ましい家業だよ!」

  身を震わせて彼は涙を流した。お峯は居たたまれなくなるほどに戸惑うしかなかった。
「親を越える才能もないくせに、生意気なことばかり言うようで申し訳ないとは思う。だけれども、不自由を辛抱さえしてくれたら、両親にひもじい思いをさせたりはしないよ。あばら屋でもいいから親子三人一緒に暮らしてさ、人に後ろ指を指されることなく、罪も作らず、恨みも受けずに清く暮そうじゃないか。
  世の中はカネが有ったからって、それで良いワケではないんだよ。まして非道を尽くして稼いだカネだ。そんなカネが何の頼みになるって言うんだい。『悪銭身につかず』って言うじゃないか。
  無理して成り上がったところで、一代限りで滅びるのが関の山だよ。因果応報を舐めちゃいけない。だからこんな家業は一日でも早く廃業するに越したことはないのさ。ああもう、行く末が明らかに見えているのに、まったく情けない話だよ!」

  積み重なった諸悪の報いは必ず起こる。その成り行きを憂う直道の心には、無残にも恨みの刃に劈(つんざ)かれ、路上で襲われて辱めを受ける父の死に顔がまざまざと浮かんだ。犬に蹴られて泥にまみれ、ブルーシートの陰に横臥する姿がはっきりと見えた。
  己の正しき信念が、父の行く末をこうなってはいけないと未然に防ぐべく映し出したのかもしれない。現実の情景ではないと判っていながらも、余りの浅ましさに彼は我を忘れて嗚咽を漏らした。食いしばる歯から漏れるその声にお峯は驚き、途方に暮れた。

  ちょうどそこへ車が停まる気配がした。インターホンのチャイムも鳴る。夫が帰って来たのだろうか。タイミングが悪い――
  胸が轟くのを感じながら、お峯は直道の肩を掴んで揺り動かしつつ、声を潜めて口早に言った。
「直道、お父さんが帰って来たから、泣いてちゃダメよ。早くあっちへ行って…ね? 今日はお願いだからもう何も言わないで…」
  足音は早くも隣の部屋にまで来ていた。お峯は慌てて出迎えようと立ち上がるが、一足遅れでドアが開く。主人の鰐淵直行の高く太った大きな身体が、のっそりとお峯の肩越しに現れた。

「おお、直道じゃないか。珍しいな。いつ来たんだ」
  こう言いながら彼はツヤツヤと赤らんだ広いおでこの陰に小さく存在する落ち窪んだ眼を、ゴキゲンに見開いた。いつものようにお峯がコートを脱がせてやる。直道が何か言うとトゲがありそうだと察したお峯は、さりげなく代わりに答えてみせた。
「さきほどですよ。あなた、ずいぶん早かったじゃないですか。おかげでちょうど良かったわ。それで、間の容体はどうだったの?」
「いや、幸いなことに思ったより軽くてな。まあ、あの様子だと心配はないな」
  部屋着を羽織って機嫌良くソファのそばへ歩み寄ったところで、直道がようやく顔を直行のほうに向けた。

「お前、どうしたんだ。何だか妙な顔をしているじゃないか」
  ホウキみたいな口髭を指で捻って、眉をきっと顰めた直行の様子に、お峯ははっとして刃を踏む心地になる。直道はキッと振り仰ぐとともに両手を胸に組み合わせて居丈高になるものの、父の顔を一瞥しては目を伏せて、そして静かに口を開いた。
「今朝新聞を読んだら、父さんが大怪我をしたと出てたので、慌てて飛んで来たんだよ」

新聞を読む

  鬱陶しいくらいの量がある白髪交じりのブラウンの髪を撫でながら直行が答える。
「何新聞か知らないが、それは間の間違いだ。俺ならそんな場面に出くわしたって、おめおめとやられたりするものかね。なーに、相手は二人だろう。五人までなら相手になろうじゃないか」
  直道の隣にいたお峯は密かに彼のコートの裾を引っ張って、言い返すなとばかりの合図を送った。それゆえ直道はやや躊躇うのだ。
「本当、どうしたんだ。顔色が良くないが」
「そうかな。余りに父さんの事が心配になるからかな」
「どういうことだいそれは?」
「父さん。たびたび言うことだけれど、もう闇金は辞めてくださいよ」
「またか! もう言うな、言うな。辞める時には辞めるんだから」

「辞めざるを得なくなってから辞めるなんてみっともない。今朝父さんが半死半生の怪我をしたって記事を見た時、どんなことをしてでも早くこの商売を廃業させなかったことを、つくづく後悔したんだよ。
  幸い父さんは無事だった。だからなおさら今日は俺の意見を受け入れてもらわねばならないんだ。今に父さんも間のような災難に必ず見舞われる。でもそれが恐ろしいから辞めろって言うわけじゃない。正しい事をして落とす命なら決して辞める必要はないけれど、カネのことで恨みを受けてそれで無法な目に遭うのは、いかにも恥晒しじゃないか。
  ひとつ間違えば命も失いかねない。障害が残るかもしれない。父さんの身の上を思うと俺は夜も眠れないんだよ。
  こんな家業をしなくては生活ができないというワケじゃなし、父さん母さん二人なら、一生楽に過ごせるほどの資産くらい既にあるでしょうが。それなのに何を好き好んでわざわざ人に恨まれて、世間から爪弾きされながら無理に財産を築く必要があるっていうのさ。なぜそんなにカネが要るのさ。

  誰にしたって自分で使い切れる以上のカネなんて、子孫に残すよりほかないわけだ。父さんには子は俺一人しかいない。その俺が一銭たりともそんな財産欲しくないって言ってるんだ!
  欲しくないんだよ。なのに父さんは無用の財産を蓄えるために、人の恨みを受けたり世間に謗られたり、おまけにこうして今じゃ親子で敵同士みたいになっている。父さんだってこんな家業は決して名誉だと思って楽しんでやっているわけじゃないんだろう?
  俺みたいな息子でも可愛いと思ってくれるなら、財産を遺してくれる代わりに俺の意見を聞いてくれよ。意見だなんて言わない。俺の願いだ。一生の願いだからどうか聞き入れてくれないか」
  父の前に頭を垂れて上げようともしない彼の頬には、熱い涙が伝っていた。

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