貫一の確信
「嫁にやるというのは、どこにですか?」
「それはまだ確定したわけじゃないんだが、下谷(したや・東京都台東区)に富山銀行というのがある。それ、富山重平な。あれの息子の嫁に欲しいという話があるんだ」
それって箕輪の家のカルタ会で600万のダイヤをひけらかしていた男ではないかと、貫一は密かに嘲笑した。しかしまた、余りに意外な人物だったのに驚き、すぐにまた彼は自嘲する。これこそ意外でもなんでもない。お宮ほどに美しい女性なのだ。目があって心を持つ人間なら誰でも恋に落ちるだろう。
――それにしても怪しいのが小父さんの意図だ。十年に及ぶ約束は軽々しく破るものではないはず。一人娘を嫁に出そうというのに、何の根拠もないことはあるまいに。冗談で言っているわけでもなさそうだし、心が狂ったふうでもない――
貫一がこう疑うのは、これが隆三の真心から出た行為だとはとても思えなかったからである。彼は競争相手がダイヤの男だと知り、一度は汚され辱められたように怒りが沸いたが、既に勝負はついているのだから、自分は腕でも組んでこの弱敵が倒れる様子でも眺めていようと思えば、だんだん心も落ち着いてきた。
「はあ。富山重平。存じております。すごい財産家で」
この一言に隆三の顔は熱くなった。
「これについてはわしもよくよく考えたのだ。なにしろお前との約束もあるし、一人娘のことでもある。しかし、お前の将来についても、お宮の今後についてもだが…、わしらは段々歳をとるだろうが。するとまあ、老後だのなんだのを考えてみれば、この鴫沢の家にはお前も知っての通り、頼れる親戚もない。何かにつけて心細いんだな。
わしらは追々歳を重ねるばかりで、逆にお前たちは若過ぎる。ここに頼もしい親類がおれば、どれほど心強いかしれん。な? そこで富山なら、親類に持ってても恥ずかしくない家柄だ。気の毒な思いをしてお前との約束を違えてしまうのも、わしらが一人娘をよそにやってしまうのも、つまりは各々にとって行く末良かれと思うからなのだぞ。
それに富山からは、たっての希望でな。無理に一人娘をもらうのだから、息子夫婦は鴫沢の子と同様に、富山も鴫沢も同じ家のつもりで、決して鴫沢の家をおろそかにはしまい。娘が家にいなくなって不都合があるならば、どのようにでも対処するからと言って来たのだ。
決して欲を出すわけではないが、良い親類を持つと言うのは、良い友人を持つのと同じだ。お前にしたってそうだろう。良い友達がいれば、いつだって話し相手になる。何かの力にもなってくれる。な? いわば親類ってのは一家の友達なのだ。
お前がこれから世に出るにしても、大きな助けになってくれるぞ。それやこれやと考えてみれば、お宮は家の中で生きて行くより、嫁に出したほうが、誰のため彼のためというのではなく、四方八方丸く収まるのだから、わしも決心して嫁にやろうと思う。
わしの考えはこういうことなのだから、決して悪く受け取るんじゃないよ。な? わしだって年甲斐もなく好き好んで若い者を苛めようとしているんじゃないんだ。お前もよくそこを考えてみてくれ。わしもこうして頼むからには、お前の方の頼みも聴こう。今年卒業したらすぐ留学したいと思うならば、わしもひとつ奮発しようじゃないか。明日にでもお宮と一緒になって、わしらを安心させてくれるよりは、お前もわしももう少し辛抱して、いっそ博士にでもなって喜ばせてくれないかのう」
彼はさも思いのままに説き伏せたかのような顔つきで、ゆっくり髭を撫でていた。
貫一は彼の話が進むに従い、ようやくその核を看破した。
――小父さんがくどくど主張して千も万も言葉を並べるのは、要は利得を覆い隠そうとするためでしかないのだ。貧しい者が盗みを働くのは世の常であるが、貧しくないのにも関わらず盗みを働こうとするとは。
最低のこの世界に生まれついても、自分が最低だと知らないことくらいあるだろうさ。それに、最低の考えを起こしたり、最低の行動をとることだってあるかもしれない。しかしだ。自分が最低だと知っていても、さらに堕ちてしまおうとするだろうか? 妻を売って博士になるだって? これこそ最低の最たるものじゃないか。

世界は穢れ、人も穢れてしまった世の中で、俺はいつだって恩人である小父さんだけは、ただ独り、穢れに染まっていないと信じて疑わなかった。過ぎてしまえば夢よりおぼろげになっていく小さな恩を忘れず、貧しい孤児を養おうという意思は、何よりの証明じゃないか。
人間ってものが浅ましいのか、俺が愚かなのか、恩人はまざまざと俺を欺いてくれた。今や、世界を挙げてどこもかしこも皆最低だ。悲しんだって既に最低の世の中だ。どうにもならん。この最低な世界に希望なんかあるのか。
いや、ただ一つだけ穢れていないものがある。希望はあるじゃないか!――
貫一は愛しいお宮を思い浮かべた。
――俺の愛は、命を脅かされても屈することはない。宮さんの愛だって、どこぞの皇帝の冠を飾り立てる世界有数の大きなダイヤモンドですら動かすことはできないんだ。俺と宮さんの愛こそ、汚泥の中で輝く宝石のようなものさ。俺はあの人との愛情というたったひとつの宝を抱いて、この世界全てが最低だということを忘れてしまおう――
貫一は自らをこう慰めて、さすがに隆三の巧言を憎く恨めしいとは思いながらも、ぐっと堪えて、顔に出さぬよう訊き返した。
「それで、この話は宮さんも知っているんですか」
「うすうすは知っておる」
「では、まだ宮さんの意見は聞いてないので?」
「それは、うむ、ちょっとは聞いてみたがな」
「宮さんはどう言ってましたか」
「お宮か。あれは別にどうってことを言わないのだ。父さんや母さんの宜しいように、って言うんで、お宮には異存はないんだ。事情を説いて聞かせてやったら『そういうことなら』とまあ、納得したわけだ」
そんな馬鹿なと思いながらも、貫一の胸は高鳴った。
「はあ…宮さんは承知したんですか?」
「そうだ。異存はないと。で、お前も承知してくれ、な? ちょっと聞いただけでは無茶なことだと思うかもしれんが、少しも無理な話じゃないんだ。わしが今話したことは、お前もよく理解しただろうが。な?」
「はい」
「事情が理解できたなら、お前も快く承諾してくれ。な? な? 貫一よ」
「はい」
「それじゃあ、お前も承知してくれるんだな。これでわしも一安心だ。詳しいことはいずれまた、ゆっくりと話そうじゃないか。その時にはお前の頼みも聴くからな。まあ、よくよく考えておきなさい」
「はい…」