カンタンに読める!金色夜叉/現代版

両親の死に場所で直道が
貫一に懇願したこととは…

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後編第7章-4-

 息子の懇願

「世間のヤツらが喜ぶのなら、喜ばせておけば良いんですよ。あなたひとりのお心持だけで、ご両親は充分満足なさいましょう。
  こんなことを申し上げては実に失礼なのですが、あなたが今日までご両親をお持ちになっていたことは、私のような身からすれば何よりも羨ましい限りなのです。この世に親子の情愛くらい偽りのないものは存在しませんからね。
  私は十五の歳から孤児になりました。親がいないというだけで、世間からはそりゃあ見くびられるものです。余りに見くびられるものですから、それで自棄になった挙句、遂に真人間に成り損ねてしまったわけでして。
  もとより自分自身が至らなかったせいですが、そもそも親がいなかったことが最大の不幸でした。こんな不幸せな人間もこうして生きているわけですから、そりゃまあ何歳になったから親と別れても良いという理屈にはなりませんが、僅かでも慰めに足り得ると、そう思っていただければ」

  貫一が人に向かって、今夜のようにこれほど親身に物を言うことはなかった。親身に語らずというよりは、単に彼が人を憎み遠ざけていただけではあるが。
  それでも貫一を父の悪事の助手だと断じて、はなから敵視し、できれば撲殺してしまいたいと心にくすぶっていた直道だったので、今、こうして彼の言葉の端々に人間らしい響きがあるのを耳にすると、なんとも奇妙な心地がしたのである。
「それではあなたは、真人間に成り損なったと?」
「そうです」
「では今は真人間ではないというわけですか?」
「もちろんそうです」
  直道は俯いたまま言葉を発しなかった。

「いや、あなたのような方に、こんな不貞腐れたことを言って申し訳ない。さあ、行きましょうか」
  直道はなおも俯いたまま、無言でただ頷いただけだった。
  夜の最も深い時間だった。音が絶たれた静寂は一層澄み渡り、考えを巡らせる苦しみの中、靴が踏み砕いた瓦の脆く割れる音だけが鋭く響く。地は荒れ、物が破壊されきった中、ひとりは立ち、ひとりは突っ伏して、言葉無く侘びしげな姿を照らすともない月影が陰々と射し添う光景。それはまさに悲しみの絵画の一幅を描き成していた。

  こうして暫くの時間が流れた後、直道が突然に言葉を発した。
「あなた、真人間になってくれませんか」
  その声音の嘆きにも似た底には、情けも籠められているように貫一には聞こえた。直道の言葉の意を彼は悟った。
「はい。ありがとうございます」
「どうですか?」
「折角のお言葉ではありますが、私のことはどうかこのままに捨て置いてください」
「それはどうして?」
「今更真人間に立ち返る必要もないのです」
「確かに必要はないでしょう。私も必要に迫られて、あなたにこんなことをお勧めするわけではありません。もう一度よく考えてみてください」

「いや、お気に障ったならご容赦ください。あなたとはこれまで、しみじみとお話をしたこともございません。私という者がどんな人間であるか、ご存じではありますまい。
  逆に私の方では常々お噂は伺っていて、よくあなたを存じております。潔癖で正義感が強く、精神的に傷を負った経歴がない人物――そういう人に対して、我々のような者が本音を申し上げるということは、実際恥ずかしいものでしてね。なにせ言動がいちいち捻くれ曲がっているのですから。あなたの正しい実直なお耳に入って行くどころか、むしろ逆らうはずです。
  で、潔いあなたと拗けた私とでは、はじめから話が合うはずがない。こんな前提条件で話をする以上は、どうか何もかも聞き流してください」

「ああ、了解しました」
「真人間になってくれないかと仰って下さったこと、私は非常に嬉しいのです。こんな商売は真人間がすることではないと、知っていながらこうして暮らしている。私は心中ではとても辛いのです。そんな思いをしながら、なぜ続けているのか! どう説明していいか判りかねますが、精神的に酷く傷つけられた反動だと、まあそう思ってください。
  私に酒が飲めたなら、ヤケ酒でもかっ喰らって、身体を壊して、それでおしまいになったのかもしれません。けれども酒は飲めませんし、腹を切る勇気もなし、つまりは意気地が無いせいでこんな体たらくに落ちぶれたのだろうと思うんですよ」

  貫一が潔いと表現した直道のその潔い心は、彼が仄めかした述懐で微動の兆しを見せていた。
「お話を聞いていると、あなたが今日の境遇になったことについて、余程の深い理由があるようですね。どういった事情だったのでしょう。詳しくお聞かせ願えませんか」
「まったくもって愚かな話でして、到底人様に聞かせられる類でもないのです。また私自身もこのことは他言しないと堅く誓っている次第でして。どうしても申し上げるわけには参りません。ただひとつ簡潔に言えば、或る事に関して或る者に欺かれたからだと…」

「はい、では詮索は止めましょう。
  それであなたも、あんな家業は真人間がするべき事ではないと充分に承知しておられる。父なんかは決して恥ずべき仕事ではないと言って、強情を張り通していました。実に浅ましいと私は思いましてね。ある時なんかは、いっそ父の前で死んで見せて、最期の意見をするしかないと決心したこともあったのです。
  父はあくまでも聞き入れない主義、私もあくまでも棄ててはおけない精神だったため、どんなことをしてでも絶対に改心させる覚悟ではいましたが、今度の災難で父を失ってしまった。残念なのは改心せずに死んだことです。これが一生の悔いになりそうで。

  一度に両親と別れ、死に目にも逢えず、その臨終ときたら気の毒とも何とも言いようのないありさま…
  おおよそ人の子としてこれ以上の悲しみがあるかどうか、察してくれませんか。それにつけても改心しないまま逝ってしまったのが、心底残念です。早々と改心さえしてくれていたら、この災難は逃れられたに違いない。私はそう信じてますよ。
  しかし過ぎてしまった事は今更仕方がないのだから、父の代わりに是非あなたに改心してもらいたいのです。今あなたが改心してくだされば、私は父が改心したも同然だと思って、それで満足するのです。そうすれば必ず父の罪も消え、私の無念も晴れる。あなたも正しい道を行けば、心安く、平穏に世を渡って行けるでしょう。

対峙するふたり

  なるほど、お話の様子ではこんな家業に身を落とされたのも、やむを得ない事情のためだとは承知していますが、父への追善、またその遺族が路頭に迷っているのを救うのだと思って、カネを貸すのは止めてください。父に関した財産は一切あなたにお譲りしますから、それを資本にして、何か人のためになるような商売でも始めてくだされば、これ以上の喜びはありません。
  父は非常にあなたを可愛がっていた。あなたも父を近しく思っていてくださっているでしょう? ならば父に代わって改悛してくれませんか」

  聞き入っていた貫一は朝露に濡れた草のように頭を垂れ、顔を上げなかった。直道の話が終わっても、決して上げなかった。問えど尋ねれど、彼は俯いたままだった。
  突如一閃の光が射した。焼け跡を貫く道のほとりを照らしたその光は、こちらにじわじわと近付いて来る。見回りの警官が怪しんで寄って来たのであった。
  ふたりは一様に顔を見合わせ、待つでもなく動きもせず立ち尽くしていた。彼らの足元まで及んだライトの光は、隈なく彼らを照らし出す。ありありとふたりの姿を見た警官が、果たしてどれほど驚いたことか。
  男二人が悲壮な表情で、蒼い頬に涙を落していたのだから――しかもここは人が泣くに相応しい場所ではないだろうに。時刻はちょうど午前二時半。

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