カンタンに読める!金色夜叉/現代版

話は済んだと思うは貫一だけ
蒲田が策を繰り出す

目次 > 中編 > 第6章 1 / 2 / 3 / 4

中編第6章-4-

 蒲田の早ワザ

  秋の日はあっという間に黄昏。やや早い時間ではあったが照明を点け、準備してあった酒の肴も順を追って運ばれてきた。
「おっ、ビールか。ちょうだい。鍋は風早の方へ。美味しく仕上げてくださいね。うーん、いい松茸だ。京都産じゃないとこうはいかないね。
  ―――中が真っ白で包丁が軋むくらいじゃないと。今年のはハズレだね。痩せていて虫が多い。雨が多かったせいだな。で、間、どうなんだ? キミの目的ってのは何だ?」
「ただカネが欲しいだけです」
「で、そのカネをどうするんだ?」
「つまらないことを! カネがあればどうとでもなるじゃないですか。どうとでもなるカネだから欲しい。その欲しいカネだから、こうして催促もするんですよ。さあ、遊佐さん、本当にどうなさるつもりなんです?」
「まあ、これを一杯飲んで、今日は機嫌良く帰ってくれよ」
  風早が制する。
「ほら、飲めよ」
「僕は酒は飲めないんです」
「せっかくの酌なんだから」

  差し出される手を押しやるはずみで、グラスは蒲田の手からポロッと滑り落ちた。そのまま灰皿の角に当たったグラスは粉々に砕ける。
「何をする!」
  貫一も今や堪忍できぬ顔で「何がだ!」と返した。
  そのまま立ちあがろうとするところを、蒲田が先んじて貫一の胸を力任せに突いた。ひとたまりもなく崩れ倒れる貫一。蒲田はこの隙に彼のバッグを奪い、中の書類を手当たり次第に掴み出した。
  貫一は狂乱の体で駆け寄って組み付く。
「強盗する気か!」
  蒲田に飛びかかる貫一だったが、利き腕をむんずと掴んだ蒲田は、「黙れ!」と一喝して捩じ伏せる。
「さあ、遊佐。その中にキミの証書があるはずだ。早くそいつを取ってしまえよ」
  遊佐は動揺した。風早もあまりに事が荒立てられたので、マズイぞという表情を作る。貫一は驚いて、蒲田を撥ね除けようと身体を右に左に捩ってはもがいて抵抗するも、跨がられてがっちりと抑え込まれた上にさらに捩り上げるものだから、身動きできやしない。
「この期に及んで躊躇している場合か! 早く! 早く早く!
  風早! 何をボーッとしてるんだ! さあ、遊佐。早く! 全て俺が責任を取ってやるから、構わずにやるんだ! 証書さえ奪ってしまえば、あとの始末は俺が全部してやるから、早く探すんだ!」
  蒲田が声を荒げて叱咤するが、ふたりはなかなか動き出そうとしない。貫一が身悶えする以上に、全力で彼を抑えつけているのにその甲斐もない状況に彼は業を煮やした。

「それはちょっとやり過ぎじゃないか。善くない、善くない」
  風早が正論を述べるも、蒲田は押し被せる。
「イイも悪いもあるか。責任は俺が引き受けたんだから、構わんのだ。遊佐、キミ自身の事じゃないか。何をぼんやりしてるんだ?」
  遊佐はビビってしまい、むしろ蒲田がエリートらしからぬ振舞いに及んでいるのを諌めるべきだと考えた。だらしない彼らでは助太刀にならないと腹立ちさえ覚えた蒲田は、宝が埋まった山に入りながら手に入れられない無念さに、貫一の腕を折れるかと思われるほど捩り上げた。堪らず貫一が懇願する。
「おい待てよ、待てって。蒲田君。何とか話をつけるからさ」
「うるさい! キミらみたいな根性無しにはもう頼まん。俺がひとりでやってみせるから、後学のためによく見ておきな」
「ひとりでどうするつもりだ?」
  風早はさすがに見かねて、手を貸そうと近寄った。
「どうもこうもあるか。コイツの手を縛っておいて、俺が証書を探すんだ」
「まあ、あまり事を荒立てるのは良くないから、それだけは思いとどまってくれよ。今、間も話をつけるって言ったじゃないか」
「信用できるか!」
「絶対に話を付けるから。この手を離してくれないか…」
  貫一は苦しそうに声を絞って乞うた。
「絶対だな? ―――こっちの要求を呑むんだな?」
「呑む…」
  どうせデマカセだと判ってはいたものの、ふたりがそこまで言うのならと蒲田は力を弛め、ついに貫一を解放した。

  身を起こすとともに、貫一は散乱した書類を掻き集めてバッグを拾い、その中に捻じ込む。そして慌ただしく座に戻った。
「それでは今日はこれで失礼します」
  蒲田の思い切った無法な振る舞いに、長居は危険だと感じたのだろう。心の内では恨みを抱きながらも敵いっこない相手に向かって表には出さず、時を稼いで彼がいないときにまた来ればいいと帰ろうとする。
  しかし敵はそう甘くなかった。
「まあ待て」
  蒲田は見下したかのように声を掛けた。

「話をつけると言ったじゃないか。さあ、約束通りに要求を聞き入れぬうちは、今度はこっちが帰さんぞ」
  膝を推し向けて詰め寄る様子は、飽きるまででも喧嘩を買おうと言う風情である。
「必ず要求は聞き入れますけれど、さっきから散々な目に遭わされて、何だか酷く気分が悪くなったのです。今日はこれで帰してくれませんか。長々とお邪魔しました。それでは遊佐さん、いずれ二・三日の内にまた伺ってお話をさせてください」
  掌を返したような貫一の態度に、蒲田は冷笑した。
「間、お前は犬の糞で仇を取ろうと思っているだろ。やってみろよ。その時にはこれからいつでも俺が来て組み伏せてやるからな」
「僕も男ですから、犬の糞じゃ仇は取りません」
「利いた風なことを言うな」
「もういい加減にしないか。間も帰りなさい。近日、じっくり話をしよう。全部その時に話せばいい。さあ、僕がそこまで送るよ」
  風早が仲裁の手を入れ、遊佐とふたり立ちあがって貫一を送り出した。

  入れ替わりで遊佐の妻が縁側から入って来る。
「まあ、蒲田さん、ありがとうございました。おかげでもうどんなに胸がスッとしたことか」
「あっ、これはどうも。ちょっと小芝居をしました」
  くだんの騒動でとっ散らかった部屋を、彼女は甲斐甲斐しく片付ける。やがて見送りに出たふたりが戻って来たのを見て、
「風早さん、どうもおかげさまで助かりました。しかしとんだご迷惑を掛けてしまって。さ、何もありませんけど、どうぞゆっくり寛いで召し上がってくださいね」
  とまあ、妻の喜びは溢れるばかりであったが、対して遊佐は青息吐息で思案に暮れていた。

酒の肴

「弱ったな。キミがああしてとっちめてくれたのはイイが、この仕返しにアイツ、何をしてくるか判らん。明日あたりに、ドンと差し押さえでも喰らわされたら堪らんぞ」
「あまりに蒲田が手荒な真似をするから、僕もさ、それを心配してハラハラしていたんだ。嘉納流も良いけれど、後先を考えてくれなきゃ却って迷惑ってもんだよ」
「まあ、待ちなよ」
  そう言って蒲田は胸ポケットの中を探ると、揉みしだかれて皺になった二通の書類を取り出した。
「何だそれは」
「どういうこと?」
  風早と遊佐だけでなく、遊佐の妻まで鼻の下を伸ばすように窺っている。
「何だろ? 初めて見るものだが…」
  首を捻りつつ風早が一通を手にとって開いて見てみれば、二百万の公正証書謄本ではないか。債権者が鰐淵直行で、債務者は聞いたこともない名前のものだ。

  ふたりは蒲田が意外な物を持っていたことに驚き、各々息を凝らして目を見張ったまま身動きもしない。蒲田が無言で残りのもう一通の書類を手に取って開くと、遊佐の妻はいよいよ近づいて覗き見た。四つの頭が餌に群がる池の鯉のように一点に集まっている。
「これは六百万の証書だな」
  一枚二枚とめくって行けば、債務者の中には目の前にいる遊佐良橘の名前をも記してあった。蒲田はスプリング仕掛けのおもちゃのように飛び上がった。
「しめた! これだこれだ!」
  驚喜の余りバランスを崩した遊佐は片手でチキンの皿をひっくり返し、乗り出した脚でビール缶をなぎ倒して、
「俺の? 俺のか!?」
と動転し、証書を手に取ろうとする蒲田も手が震えて、紙を掴めないほどに興奮している。
「キャー!」
  叫んだ遊佐の妻の胸ははち切れんほどに一杯になり、言葉がそこから続かない。
「やった! やったぞ!! よっしゃー!!!」
  興奮クライマックスとばかりの蒲田の勝ち鬨の声。

  証書は風早の手に渡り、それから遊佐と妻と蒲田の六つの目で仔細にこれを点検し、偽りないホンモノであることを確認した。
「おい、顔が固まってるぞ」
  そう尋ねられた風早の顔は、確かに呆れと喜びと恐れが同居したかのようであった。
  やがて証書は遊佐夫妻の手に渡された。ふたりの膝の上に開かれた証書を読む夫婦。まさに比翼読み(ひよくよみ・夫婦仲の睦まじさの象徴である中国の空想上の鳥「比翼の鳥」のように、ひとつの書を男女ふたりで一緒に読むこと)だ。
  さらにビールが並々と注がれたグラスを手にした蒲田は意気を上げる。
「バッサバッサと斬りまくったもんだから、血が刀に滴って、拭い取る暇もないや! どうだ、凄いだろ? ヤツを捩じ伏せている間に、足で掻き寄せて懐に忍ばせたのだ。早業さ」
「やっぱりそれも嘉納流か?」
「冗談言っちゃいかん。しかしこれも嘉納流の課外授業みたいなもんさ」
「これが遊佐の証書だと、どうして判ったんだ?」
「そんなもん、判るはずがない。何でもいいからひとつふたつ奪っておけば、ヤツを退治する材料になると考えて早業で奪ったんだ。ところが思いがけずこれが遊佐の証書だったとは、まったく天は善人の味方だね」

「あまり善人でもない気がするが…ともかくそうやってアレをこっちで預かってしまえば六百万は踏み倒せるってことか」
「そうさ! 少し悪党になればそれも可能だ」
「しかし、公正証書だろ…?」
「構いやしない。公証役場には証書の原本があるから、いざという時にはそっちが物を言うけれども、この正本さえ引き揚げてしまえれば、間貫一がいくらジタバタしたところで『カッパの皿の水が乾いてしまった』も同然。こうなれば証拠もないんだから、矢でも鉄砲でも持って来いってんだ。
  とはいえ、全額まるまる踏み倒すのもさすがに不憫な気もするから、そこは何とかまた色を付けてやろうじゃないか。まあまあ、キミたちは安心していればいい。この蒲田特命全権大使がだな、攻勢を上手にかわして、交渉をまとめてやろうじゃないか。遊佐家を安泰にしてみせますよ。全く実に気分が良い!」
  皆がポカーンとするのには目もくれず、蒲田は証書を恭しく受け取りさらに声を上げた。
「さあ、遊佐君のために万歳三唱でもしよう! 奥さん、音頭を取ってくださいよ!―――いや、ほんと!」
  小心者の遊佐には、この非常手段が逮捕レベルの大罪に思えなくもなかった。それでも蒲田が一切合切を引き受けて見事解決してみせようと見栄を切るのに励まされ、生涯の天敵退散の祝いだと皆円座になって夜通しの宴会に突入したのである。

続きを読む