カンタンに読める!金色夜叉/現代版

黙って聞いていた蒲田が
突然怒りを爆発させる

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中編第6章-3-

 蒲田の逆襲

  遊佐はどうすれば良いのかを計りかね、覚束ない様子で頷くしかなかった。ずっと黙っていた蒲田の怒りが、この時爆発した。
「待てと言っているじゃないか! さっきから風早が口を酸っぱくして頼んでいるというのに、集金のことばかり言うもんじゃないぞ。人に対する礼儀というものが、まずあるんじゃないのか。しかるべき挨拶を先にしろよ」
「話が話ですから、しかるべきご挨拶なんてやりようがないですな」
「黙れ、間! お前の頭は銭勘定ばかりしているせいで、人の言うことが理解できないようだな。誰がその話にしかるべき挨拶をしろだなんて言った? 友人に対する言動が非礼だから、少しは慎めと言ったのだ。
  高利貸なら高利貸らしく、身の程を弁えて神妙にしていろよ。泥棒の兄弟分みたいな不正な活動をしているくせに。こうやって旧友に会ったときに恥じ入って赤い顔のひとつでもするどころか、世界一周でもしてきたかのような得意げな顔でいやがる。お前は高利でカネを貸すことを、この上ない名誉ある仕事だとでも思っているのか? 恥を恥とも思わないのか?

  一枚の紙切れを鼻に懸けて俺らを侮蔑したこのありさまを、荒尾譲介(あらおじょうすけ)に見せてやりたいさ! お前みたいなゲスに生まれ変わってしまった男を、荒尾は昔の間貫一だと思ったままなんだ。この間も俺らと話した時に、お前の安否を気に懸けて塞ぎ込んでいたんだぞ。死なせてしまった実の弟よりも、お前を失ったことのほうが悲しいってな。
  その言葉に対して、少しは良心が咎めやしないのか。目を醒ませ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が係わったからには、決して迷惑を掛けるような真似はしないから、今日のところは大人しく帰れ、帰れ」

「受け取るものを受け取らずには帰れるはずがありません。あなたがたがそこまで遊佐さんの件について心配していただけるのであれば、こうしてくださいよ。とにかくこの約束手形を遊佐さんから頂ければ、これでこっちはひとまず丸く収まるのです。風早君と蒲田君が連帯保証人になって、改めて六百万の証書を書いてください」
  蒲田はこのやり口に身に覚えがあった。
「うん、いいさ」
「では、そうなさってくれますか?」
「うん、判った」
「そうすればまた、話の落とし所もあるというものですね」
「しかし気の毒だな。無利息、十年払いにしてくれるとは」
「ええっ? 冗談じゃない」
  さすがに面喰った顔の貫一に対して、蒲田は勝ち誇った笑みを浮かべた。

  風早が続ける。
「冗談はさて置いて、いずれ四・五日のうちにしっかり話をつけるから。今日のところは久しぶりに会った僕らの顔を立てて、何も言わずに帰ってくれないか」
「そういう無理を仰るので、こちらの方もしかるべきご挨拶ができなくなるんですよ。既に遊佐さんもご承諾なのですから、この手形は戴いて帰ります。
  まだ他を廻る用事で急ぎますので、お話は後日ゆっくり伺いましょう。遊佐さん、印鑑をお願いします。あなたね、ご承諾なさっておきながら、今になってグズグズなさっては困ります」
「追い詰められた疫病神が喚くみたいに、手形手形とうるさいヤツだ。俺が始末してやろうじゃないか」
  蒲田は遊佐の前にある紙を手に取り、眺めた。
「金二百三十四万円…? 何だ二百三十四万円って」
「二百三十四万? 百八十万だよ」
  遊佐が怪訝な顔を作る。
「金二百三十四万円とこの通り書いてある」
  こんな手口は全て知った上で、蒲田はわざと怪しむ素振りを見せた。遊佐は「そんなはずはない」と返したが、貫一が彼らの騒ぐのを尻目にして答えた。
「百八十万円は元金、これに加えた五十四万円は三割の利息。これは高利貸しじゃ当たり前です」
  声に出せないほどに遊佐は肝を潰した。

数字

  蒲田は物も言わずこの手形の紙を二つに引き裂いた。遊佐も風早もこれはと見る間に、なおも引き裂き引き裂き、引き捩じって貫一の顔先に投げつけた。しかし貫一は顔色一つ変えない。
「何をなさるのです」
「始末をしてやったのだよ」
「遊佐さん、それでは手形すら出してくれないんですね?」
  遊佐は貫一が非常手段を取るやもしれないと、心密かに恐れをなして答えた。
「いや、そういう訳ではない…」
「いや! そういう訳だ!」
  被せるように蒲田が膝を突き出して言い放った。その強面ですら、貫一は幼稚なと軽んじたのか、わざと声色を和らげる。
「手形の始末はそれで付いたのかもしれませんけれど、キミも折角中に入ってくれるのなら、もう少し男らしい振舞いをしてくださいよ。僕みたいなゲスとは違って、キミは立派な法科大学院卒じゃないですか」
「ああ、俺が法科大学院卒ならそれがどうした?」
「肩書と言っていることがそぐわないんですよ」
「生意気な。もう一遍言ってみろ」
「何遍でも言いましょう。法科大学院卒ならそれに相応しい言動をしてください」
  蒲田の腕は即座に動き、まだ言い足らぬ貫一の胸先をがっしりと掴んだ。

「間…お前は…!」
  目を逸らす彼の顔面をじっと見詰めた蒲田。
「ぶん殴ってやりたいと思うほど憎いヤツでも、こうして顔を合わせてみればだ、白い二本のボーダーが入った帽子を被って暖房の前で膝を並べた時分の姿が瞼の裏に浮かぶんだ。ああ、こんな優しい間を殴るだなんて…って、力が抜けてしまう。お前、これが人情ってもんだろ」
  鷹に捕らわれた小鳥のように身動きもできず押さえつけられた貫一に対して、風早はさすがに憐憫の眼差しを向けた。
「蒲田の言う通りだ。僕らもあの頃の間だと思って、キミに誓って迷惑を掛けるようなことはしないからさ。キミも友人の誼でふたりの頼みを聴いてやってくれ。頼むよ」
「さあ、間、どうだ?」
「友人の誼は友人の誼、貸したカネは貸したカネですから、別問題…」
  言い終わらぬうちに貫一は喉を詰まらせた。蒲田がやや強く締め上げたからだ。
「さあ、もっと言え、言ってみろ! 言ったらお前の呼吸が止まるぞ」

  貫一は苦しさに耐えきれず、振りほどこうともがいた。それでも嘉納流柔術の心得がある蒲田の力には敵わない。なすがままに身を任せるしかない貫一は、蒲田が幾分力を弛めるのを願うしかない有様だった。遊佐は驚き、風早も動揺して蒲田に尋ねる。
「おい蒲田、大丈夫か? 死にはしないか?」
「あまり乱暴するなよ」
  蒲田は大声で笑った。
「こうなるとカネの力より腕の力だな。こりゃ水滸伝にある構図だ。要は国の利益を守り国権を保つにはだ、国際法なんてものは絵に描いた餅さ。要は兵力よ。世界の国々に立法君主が居ない場合、国と国とのさまざまな争い事は、誰が公平に裁いて決着させるというのか。ここにただ一つ、審判の機関があるのさ。そう、戦うことだ!」
「もう赦してやれよ。だいぶ苦しそうだ」
「強国は恥辱の歴史を持たない。だから俺の外交術も嘉納流さ」
「あんまり酷い目に遭わせると、俺の方に仕返しが向くから、もうよしてくれないか」
  風早や遊佐の言葉もあって、蒲田はいくぶん力を弛めたものの、未だ首を掴んだまま。
「さあ、間、返事はどうだ?」
「喉元を絞められても、出す言葉は変わりませんよ。僕はカネの力には屈しても、暴力なんかに屈するものか。憎いと思うならこの顔を一千万の札束で叩くがいい」
「硬貨でもいいのか?」
「硬貨でも結構です」
「じゃあ、くれてやる!」
  蒲田は油断した貫一の左頬に、これでもかと力を込めて平手打ちを喰らわせた。貫一は痛みを両手で抑えて、しばらく顔も上げることができない。

  ようやく座り直した蒲田はふたりに提案をした。
「こいつはなかなか帰りそうにないな。いっそここで酒でも飲もうじゃないか。そして飲みながら話せばいい」
「そうだな、それも良いだろう」
  ひとりだけ良くないのは遊佐だ。
「ここで飲んでも旨くないよ。決着が着かない限り、いつまででも帰りはしないんだから。酒が無くなって、彼だけが残ってしまうようなことになってもらっては尚更困る」
「判った。帰りには俺が一緒に引っ張って行って良い所へ連れて行ってやる。なあ、間、おい。間!」
「はい」
「お前、嫁はいるのか? あっ!風早!」
と、突然不意に叫んだので風早はびっくりした。
「驚かせるなよ。何だ?」
「思い出したんだよ! 間の婚約者はお宮だ。お宮!
  今じゃ彼女と一緒なのか? 鬼の闇金の女房に天女ってところだけれど、今じゃ一緒になって金貸しなんかをさせているのかもしれん。おいお前、そんな事をさせちゃダメだぞ。
  けれど闇金屋なんてのは、これで却って女には優しいかもな。間、そうかい。酷い手段で暴利を貪る闇金屋たちは、やっぱり旨い物を食い、美人の女を自由にして、好きな贅沢をしたいというただそれだけの目的で、あんな非道をするのだと聞くけれども、実際そうなのか?
  俺らからすれば、人情に耐えきれないのを耐えてあのような真似をするというのは、何か抜き差しならない目的があってカネを集めているように思えるのだが。例えば、何かの事業資金にするとか、質屋に入れた家宝を取り戻すとか。単純に私欲を満たすためだけに、あんな思い切った残酷な仕事ができるとは思えないのさ。
  その辺のカネの亡者どもはともかく、間貫一においては何かそれ相応の目的があるんだろう? こんな商売に手を染めるくらいだから、絶対それ相応の止むに止まれぬ目的があるはずだ」

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