カンタンに読める!金色夜叉/現代版

隣席の話が貫一の心を
ぐるぐると掻き回して…

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続金色夜叉第5章-3-

 堂々巡り

「そんなことを言われても。じゃあどうしろって言うんだよ」
「どうだっていいわ。私、もう心に決めたんだから」
  男の声がそれに続くこともなく、しかしやや間があってどちらが口を開いたのかも判らない具合に、ひとしきりひそひそと話し声が漏れ聞こえたけれども、小声だったせいで内容までは貫一には把握できなかった。この内緒話はしばらく続き、その間に一度も大声は発されなかった。お互いに納得できたのであろう。
「きっと? きっとよね?」
  再びはっきりとした文言が聞こえて来た。女の声だ。
「だったら私、そのつもりでいるから」

  そうして彼らの会話は再び小声になった。しかし全く言葉が尽きる気配はなく、ふたりは語り続けている。貫一は心ひそかに女の成功を祝った。なおかつ雅之という男のこの上ない果報者っぷりを思い、まるで心地よい音楽が計らずとも漏れ聞こえて来たかのように、自身の憂いをも忘れてしまうのだった。
  ――この娘があのお宮だったら、どんな展開になっただろう。俺自身が雅之の立場だったなら、どうだったであろうか。俺は今日の俺を選ぶだろうか。いや、それとも雅之の生き方を渇望するだろうか――

  貫一は空しく考えに耽った。
  お宮もかつて自分自身に対し、ゆるぎない誠意が全くなかったわけではないだろう。彼女がもし、ダイヤの輝きを目にしなかったならば、俺だって刑罰を受けてでも彼女への誠意を全うしたんじゃないだろうか。唯継の財力が彼女を脅かした結果と、刑期を終えて出所する前に雅之を捨ててしまうという選択は、同じことではないだろうか。
  輝くダイヤモンドと穢れた罪、どちらがふたりの愛を強力に切り裂くのか――

  貫一はこう考えた。
  ただ相手のことを第一に想い、自己の幸福を求めず、家もなく、どんな苦境でも共に歩むと誓った女性が、最後まで富のために心変わりしないということはあり得るのだろうか。
  または、一旦その人に与えた愛を惜しんで、別の相手に高値で愛を売りつける真似をしないなんてことはあり得るのだろうか。
  資産で争ってボロ負けし、愛情を争って敗れ、俺の恨みはいずれにせよ深淵なのだ――

  貫一はこうも考えた。
  そもそも愛情が最も深いということは、カネに惑わされることもなければ、別の者に心変わりすることもないわけだ。かりそめにでも心変わりするのならば、愛情が最も深いと言えないのは明らかじゃないか。
  おおよそ女性の愛情なんてものは、俺の愛情のように深くはないのが一般的なのか。あるいは俺がずっと思ってきたとおり、お宮の愛情が特に俺に対してのみ薄っぺらかっただけなのか。
  俺は彼女の不義不貞に憤ったため、世の中の「恋」というものを疑いの目で見るようになり、あらゆる「恋」を退けてきた。しかしそのたった一度の怒りは、「恋」を退けたくらいで消えるはずもなかった。確実に手に入れられるものを失った、満たされぬ俺の心。胸にぽっかりと穴が開き、さすがに死に至らしめることまではなかったが、もはや除霊できない悪霊のように執念深く俺を苦しめてきたのだ――

苦悶

  こんな具合なのに、何ら楽しみを知らない心の持ち主の俺が、今日偶然にふたりが幸せそうに喜ぶのを聴いて、自分までも嬉しくなり、幸せの影を追い求めようと欲するのは、どうしたワケなんだろう。お宮の愛情でなくても、それに代わるモノを得て、とにかくも心の慰みにしたってことか――

  貫一はますます思い巡らせた。
  お宮が最近、俺に対して薄情な真似をしたことを悔いて、その決心を表明した。俺にどんな仕打ちを受けても構わないと。
  俺は彼女の懺悔と引き換えに、怒りを忘れるべきなのだろうか。とはいえ、昔のあの頃に戻ってやり直すことなんてできるはずがない。彼女の悔悟は彼女の悔悟であるだけのこと。俺の失意の恨みもまた、どのみち俺の失意の恨み以外の何物でもないのだ。
  この恨みは唯継の数倍の財力を俺が持てば、解消するだろうか。またはそれだけの財力を獲得するために貪欲になれば、この恨みは消えていくのだろうか――

  貫一は苦しげに吐息した。
  俺の「恋」をぶち壊した唯継。そしてかのふたりの恋路をぶち壊そうとしたのは誰か。その張本人である俺は今、成田へ向かう身であるが、これは恋路をぶち壊し、あるいはぶち壊そうとする行為ではないのか。
  しかもその貪欲は、俺に何をもたらしてくれるのか。資産か。資産は俺の狂った病を癒す特効薬に違いない。あの妨げられた「恋」は、もう元には戻らない。割れた鏡が元通りになることがないように。俺の裂かれた愛も戻らない、落ちた花が再び咲くことがないように。
  さて、俺は空しく土に埋まるべきなのか。風に乗って飛び降りるべきなのか。水に落ちて流されるべきなのか――
  彼は船橋(ふなばし・千葉県船橋市)を過ぎるややほの暗い列車に揺られていた。

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