カンタンに読める!金色夜叉/現代版

憂鬱なお宮とは対照的に
夫の愛は意外と献身的

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後編第2章-3-

 空回りする唯継

  この寒い日にこの暖かい部屋で、この焦がれる身を意中の人と対面しながら、誠心誠意恋しさを語ることができたなら…と思い至ったお宮。胸はもはや張り裂けそうになっていた。今の待つ身は、来ない人を待つ身なのだと、口惜しさに悶える。
  じっと座っていられずに椅子から立ち上がり、窓に歩み寄った。外に目を何気なく遣ってみれば、いつしか雪が降り始めて庭は薄く白色に染まっている。
  今日は一月十七日なのだという実感が激しくなった。降りしきる雪から何か言葉を聴いているかのように、彼女はそこに佇むのだ。

  そこへ唯継が帰宅した。静かに開けられたドアの音は、深く物思いに耽るお宮の耳には届かない。氷のように冷たくなった手を懐に差し入れられた驚きで、彼女ははっと振り向こうとしたが、すぐに後ろからきつく抱き締められてしまった。それでも夫が常に纏う香水の香りは隠れやしないのだ。
「あら、帰ってらしたのね」
「寒かったよ」
「かなり降って来たもの。大変だったわね」
「何だか判らないけれども、無茶苦茶寒かったよ」
  お宮はソファを夫に勧め、自らは暖炉の薪をくべた。今の今まで貫一のことを思い詰めていただけに、夫である唯継にこうして奉仕したところで、人の道から外れた女になった心地がしてしまう。

  窓の外に降る雪、風に乱れる雪、枝に宿る雪、庭に積もる雪。目に入って来る限りの白銀は、我が身に積もり積もった彼の恨みの化身なのかしらとも思えた。この現況のやましさと切なさは、厳しく責め立てられているようで耐え難いものがあった。
  しかしながら、この美人の借景にこの雪を得た夫は得意満面である。足を大きく広げて投げ出し、ようやく温まって来た顎を突き反らして妻に命じた。
「ああ、よく降るね。面白いほど降る。こういう日は寄せ鍋で一杯といきたいな。寄せ鍋を作ってもらおう。寄せ鍋がいい。それからコーヒーを一杯淹れてくれないかい。コニャックを少し多めに垂らして」

  お宮は部屋を出ようとした。
「お前が行く必要はないじゃないか。必要なモノを取り寄せてここで拵えればいいさ」
  彼女がインターフォンを鳴らしてから暖炉のそばに近づくと、唯継はその手をとって小脇に挟んだ。お宮は喜ぶ様子もなく、ただ彼のするに任せている。
「お前どうしたんだい。何を塞いでいるんだ」
  引き寄せられた彼女の身体は、ほとんど倒れそうになって椅子に支えられていた。唯継は鼻が付くほどの距離まで顔を覗きこんで、じーっと見つめる。
「顔色が悪い。雪で寒いから胸でも痛むかい。頭痛がするのかい。そんなことはないだって? どうしたんだ。それじゃ判らないよ。もっとはっきりと言ってくれなきゃ。そう陰気な感じだと愛情が薄いと思っちゃうぞ。夫婦の愛が薄いんじゃないかと疑っちゃうんだ。違うかい?」

  急にドアが開いたので視線を遣れば、さっき命じた物を家政婦が運んで来たのだった。人目も憚らずに唯継がイチャイチャしてくるのはいつものことで、それを見苦しいと思っているお宮は毎度その場を離れようとし、却って唯継が離さないのも恒例だった。すっかり日常のことなので家政婦は見ないふりをし、コーヒーセットと瓶をテーブルに置くとすぐ退出する。
  こうやって執念深く愛情表現される状況を、お宮は憂鬱に感じて浅ましく思っていた。

  雪は風を加えて、掻き乱し掻き乱し降りしきる。そろそろ日も暮れ、楽しい夜の時間の到来に、唯継の目尻は人目に恥ずかしいほど垂れ下っていた。
「近頃はかなり塞ぎこんでいるようじゃないか。俺にはそう見える。そうやって家の中ばかりに引き籠っているのは良くないよ。最近全然出掛けないじゃない。ずっとそんなありさまだから、ますます陰気になってしまうんだ。

  この間も鳥柴(としば)の奥さんに会ったら、そう言ってたよ。どうして奥さんはちっとも顔を見せないのかって。劇場くらいには出掛けてもよさそうなものなのに、まるっきり影も姿も見せないなんて。いくら大事にしているからって、家に閉じ込めて仕舞っておくもんじゃありません。少しは人にも見せてくださいって。
  こんな具合に言われてしまったのさ。それからね、今度の選挙で実業家の福積(ふくづみ)が当選しただろう。俺も大いに協力をしたもんだ。それで近日中に当選祝賀パーティーがあって、それが済み次第、別に慰労会って形で格別尽力した連中を招待するんだよ。その席は夫人同伴でってことだから、ぜひお前にも出てもらわないと。

  驚くぞ。俺の周りじゃ、富山の妻ときたら評判なものさ。会ったことのない奴まで、お前のことを知っているんだ。まあそういうことだから、俺も鼻が高くてね。しかしそうも評判になってしまうと、美しい妻に軽々しく出歩かれると心配にもなる。あまりあちこちに顔を出さないほうが良いものだよ。それでも、近頃のように引き籠ってばかりいては、第一精神衛生上良くない。
  そこでだ。俺は日曜ごとにお前を連れて出たいんだよ。結婚してすぐはそうだったろう? 子供を産んでから、そう、あれから半年くらいしてからかな。余り出歩かなくなったのは。それでも今に較べればあちこち出歩いたもんだ。

  よし、コーヒーができたか。うう熱いな、旨い。お前も飲むかい。半分あげようか。要らない? 冷たいヤツだな。じゃあ酒が入っていないのを飲むと良い。
  寄せ鍋はまだか? うん、あっちで支度をしているから、出来たら言いに来る? それが良い。洋室で寄せ鍋っていうのは風情がないからね。和室で差向いになって鍋を突っつくに限るよ。

寄せ鍋

  いいかい? 福積の招待には、驚くほど美しくして出て貰わないと。それでまずは服だ。何か新しいのが欲しいならすぐに仕立てさせようじゃないか。お前がこれなら充分だと思う装いで、堂々と出席しよう。それにお前はこのごろはあまり服装に気を遣っていない。ダメだよ、いつでもそんな同じようなモノばかり着ていちゃ。どうしてあの上着を羽織らないんだい? あれはよく似合っているのに。

  明後日は日曜だ。どこか行こう。服を見に三越へでも行こうか。あっ、そうだそうだ、柏原(かしわばら)の奥さんが、お前の写真を欲しがって会う度に毎回催促されるから敵わないよ。
  明日は用があって出向かなきゃいけないから、持って行かないとマズイな。プリントしたのは、どこかにあったかな。ない? そりゃ困ったな。一枚もないのか。弱ったね。それじゃ明後日撮ろうじゃないか。着飾って若返った格好で二人で撮るってのも面白い。
  よし、寄せ鍋ができた? さあ、行こう」
  夫の後に従ってお宮は部屋を出ようと、思うところありげにしばし窓の外を見つめ、そしてひとりごちた。
「どうしてこんなに降るのかしら――」
「何を下らんことを言ってるんだ。さあ、行こう行こう」

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