カンタンに読める!金色夜叉/現代版

悔やんでも悔やみきれぬ
熱海の夜を思うお宮は…

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後編第2章-2-

 本当に手に入れたかったもの

  こうも愛されていたのに関わらず、お宮の一念は微動だにしなかった。稀に見る人の情愛を裏切ってここに嫁いだ罪でさえ嘆かわしくて堪らないのに、おまけに望まぬ子すら儲けてしまった過ちはどうしたものか。彼女は自らその許しがたい行いを恥じ入り、大いに悲しんだ。その憎しみに耐えきれなかったのだろうか、子は死んでしまい、その後彼女は決して唯継の子を産むまいと固く心に誓ったのである。
  二年後、三年後、四年の後までも、彼女はその誓いを守っていた。

  お宮の心はだんだんと曇ってゆく。今となっては何のために嫁いだのか、その理由が身に沁みて判るだけに、大きな苦しみとなっていた。機械のように夫を守り、置物のように家内に据えられ、人妻となった幸せも思い出もない。むしろ籠の中の鳥が空の雲を望む身分となったゆえに自由を渇望するだけで、裕福な生活も富める資産もその辺りの土のように無価値に感じていた。
  この四年の間は思いに思いを重ねただけで過ぎてしまったので、熱海から姿を消した人の姿を田鶴見のダンナの邸内で見るまでは、彼女は貫一のあしどりを一切把握していなかった。
  ずっと暮らしていた鴫沢の実家ではうすうす消息を掴んでいたのかもしれないが、言うべきでもないことを告げるほど愚かな親でもなかった。彼女がそれを知る手段は、全くもって断たれてしまったのである。

  夢の中ですら忘れたことのないその姿を意図せず目撃したお宮の気持ちは、どれほどのものだったろう。飢えた人間が貪り食うように、彼女はその一目に四年間求め続けた思いを込めて見入った。
  こうなると気持ちは加速する。彼女の欲はこの日を境に性急さを増し、不徳を許してしまった自分自身を擲(なげう)って、この一点のためなら他の全てを捨てても良いと深く願うのだった。

  五番町の鰐淵という家に住んでいるというのは静緒から聞いていたものの、連絡するのは躊躇われる。距離も遠くはないが、ひとりで外出して彷徨うのも叶わぬ身なので、届かぬ夢に苦しむばかりだった。
  それでも安否すら判らなかった数年間の思いと較べれば、袋の中を探るに等しいレベルにまで達したのだと、ただそれだけを慰めに過ごす彼女。とはいえ日ごとの退屈を憂いのままでやり過ごす辛さに耐えかね、思いのたけを全て注ぎ込んだ長い長い手紙を書こうと思い立ったの。その手紙は折を見て郵送しようとして書いたのではない。また実際に逢って、言えない思いを伝えるために書いたわけでもない。ただこうも儚い身の上と切ない胸の内とを、ペンに託して吐き出したかっただけなのだ。

  お宮が貫一のことを忘れないのと同様に、長年に渡り熱海の悲しい離別をも忘れることができなかった。おまけに毎年巡って来る一月十七日という日が、その悲しい別れを忘れない胸に、更なる追い打ちを掛けるのだ。後悔を新たにしないはずがないであろう。

「十年のちの今月今夜も俺の涙で必ず月を曇らせてみせるから、月が曇ったなら、貫一はどこかでお前を恨んで今夜のように泣いていると思ってくれ――」
  耳を覆っていても、この言葉が聞こえる。毎年その日その夜が来るたびに、果たして月は曇るのだろうかとヒヤヒヤして空を眺めるのだ。幸い月が曇ることはなかった。貫一がどこかの空の下で泣いている兆候がないことに安堵しつつ、それでもさすがに恨みを忘れてはいないだろうとか、今となっては自分の事もすっかり忘れてしまったのじゃないのかとか、はたまたどこでどうしているのかしらと結局嘆き悲しむのである。

物思いにふける

  例のその日は四度巡り、今年もまたやって来た。晴れた空は午後から曇り始め、少しばかり吹き出した風はとても冷たい。やけに冷える日だった。
  お宮にとっていつにも増して心煩わしいこの日だからこそ、彼女はペンを執って書き続けようとした。しかし余りに思い乱れたせいで力尽き、気持ちを紛らわす術もなくなってしまう。
  どんどん冷え込んできたので耐えられなくなると、暖炉の火を入れさせて彼女は洋室へ移った。十畳の部屋のあらゆる窓のカーテンは閉じてあり、暖炉の炎が春を思わせる暖気をじわじわ生産する。
  シルク地のマキシスカートの裾を踏んだまま、やはり緋色のシルク張りのソファに寄り掛かると、心の影がそこに映っているのを眺めるかのように、美しい目を純白の天井に注いでいた。

  夫の留守中、お宮はこの家の主である。世話をしなければならない舅や姑は同居しておらず、気兼ねする小姑もいない。足手まといになる子供も未だなかった。それでいてひとりの家政婦とふたりの使用人にあらゆる面倒事を任せ、するべきことが一日中何もなかったのだ。
  外出するときは運転手が連れて行ってくれる。テーブルには何もしなくとも肉料理が出される。しかも言うことは何でも聞いてくれて、することは何でも喜ぶ夫までいるのである。彼女は今、若い既婚女性が夢見る理想の生活を謳歌していた。実に世間の娘たちが空想し、妄想し、望みに望んだ頂点がまさしく今の自分の身なのだと、彼女はたまに思ったりもするのだ。

「あぁ…私もこの生活を手に入れたくて、願って願い続けたあまりに、もう二度と手に入らない恋人を捨てちゃったんだ。でもこの幸せな生活だって、五年前の今日っていう日に味わった悲しみの大きさに較べたら、小さなものね――」
  苦しげに歎息するお宮。今になって彼女は初めて悟った。渇望していた幸福な生活。これは今の夫とではなく、貫一とともに味わいたかったのだと。
  もしも資本的な喜びと精神的な喜びの両方を享受する機会に恵まれず、必ずどちらか一方を選択せねばならないのだとしたら、どちらを取るべきか。気付くのが遅かったのだ。彼女は遣る瀬無い気持ちで悔いていたのである。

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