カンタンに読める!金色夜叉/現代版

お峯の頼みごとを快諾した貫一
女のカンは当たるのか?

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中編第3章-3-

 安く買われた貫一

「ちょっと見ただけでも、そんなことをしそうな風じゃないですか。あなたなんかは堅物ですからいいですけども、本当にあんな人に関わりでもしたら大変ですよ」
「そんなことがあるんですかねえ」
「だって私の耳にさえ入って来るくらいなのに、あなたが全く知らないということはないと思いますわ。あの美人さんがそういう女だっていうのは専らの評判ですよ。
  金窪(かなくぼ)さん、鷲爪(わしづめ)さん、それから芥原(あくたはら)さん、みんなその話をしていました」
「あるいはそんな評判があるのかもしれませんが、私は一向に聞いたことがないですね。でもなるほど、ああいう風ですから、それはそうなのかもしれません」
「外の人にこんな話はできませんわ。長年気心も知れて、家族同然のあなたですから、私もお話するんですけどね。困ったことができてしまったの――どうしたらいいのかと思ってね」

  お峯がナイフを執る手はだんだん動きが鈍くなってきた。
「あら、これは大きな虫がいるわ。ほら見て、この虫」
「大きいですね」
「虫がいたら食べられないわね。栗に限らず」
「そうですね」
  お峯はまたひとつ栗を取って剥き始めたが、心が進まないようでナイフの動きはますますのろくなった。
「これは本当にあなただからこそ、私は信じて話すのです。ここだけの話なの」
「承知しました」
  貫一は食べようとしていた栗を持ち直し、お峯の顔を見詰めた。他に聞く人などいないと判ってはいても、秘密を語ろうとする彼女の声は自ずから小さくなった。
「どうもこの間から私はおかしいおかしいと思ってはいたんですがね。うちの人の様子がね。あの美人さんと何か関わりあいになっているんじゃないかと思うの――いや、どうやらそれに間違いないの!」

  彼女はとうとう栗を剥くのをやめてしまった。貫一は笑って、
「そんなバカな、ねえ?」
「他の人ならいざ知らず、付いている女房の私が言うんですから。それはもう間違いないわ!」
  貫一はじっと考えた。
「旦那はお幾つでしたっけ?」
「五十一、もう爺さんですわ」
  彼はまた考えた。
「何か証拠でもあるのですか?」

  息巻くお峯を前にして彼は顔を伏せて何も言わず、静かに考えを巡らせていた。お峯は心を落ち着かせ、再び栗を剥き始める。ひとつ剥き終わるまでは無言だったが、ようやくおもむろに口を開いた。
「それはもう男の甲斐性ってことで、愛人を作るのも外で楽しむのも構いやしません。これがホステスやらキャバ嬢を囲っているとかなら私だって何も言いませんけれど、彼女には夫がいるじゃありませんか。しかもあの女のことですからね!
  そんじょそこらの女とは違うんです。だから私は本当に心配で。ちょっとした火遊びなら可愛らしいものですけれど、あれは火遊びどころの始末じゃないわ。あんな女に関わりあった日には、最後はどうなることだかしれやしない。それが心配なの。

  うちの人もあんなに利口なのに、どうしたっていうのかしら。今朝出掛けて行ったのも、どうもおかしいのよ。確実に赤坂に行ったんじゃないと思うわ。ほらご覧なさいよ、このごろ何だかオシャレしてるでしょ? 今朝なんかスーツからベルトまで全部新品よ。あの着飾りようったら、いつも赤坂に行くのにあんなに気合入れてオシャレしたことなんかなかったのに。だから赤坂じゃないことは確実なのよ」

「それが事実なら困りますよね」
「あら、あなたまだそんな気楽なことを。事実ならじゃなくて、事実に違いないんですってば」
  貫一のどうも気乗りしない様子に、お峯は歯痒く感じ、苛立ってきた。
「ええ。事実だとすればますます良くないですね。あの女に関わってしまうのは非常に宜しくない。ご心配でしょう」
「嫉妬心で言っているんじゃないの。本当に主人の身を思って心配なんですよ。相手が悪いわ」
  思い直してみたものの、どうも貫一は腑に落ちなかった。
「で、それはいつからなんですか?」
「つい最近よ」
「どちらにしても心配ですね」
「そこでね、折り入ってお願いがあるの。折を見て私からもしっかりと言おうとは思っているんだけれど、なにせコレといった証拠がないと口に出せないでしょう? 何とかそこを突き止めたいんですけどね、私の身体じゃ外の様子がさっぱり判らないの」
「ですよね」
「で、あなたを見込んでお願いするんですが、どうかそっと様子を探ってみてください。ほんとはあなたが寝込んでいなければ、今日早速にでもお願いしたいくらいなんだけれど、タイミングが悪かったわ」

  行けと命じられれば選択の余地はない。それでも紅茶と栗で買われてしまった安い自分の身を貫一は内心可笑しく感じた。
「いえ、一向に差し支えはありません。どうすればいいのでしょうか?」
「そう? なんだか悪いわね」
  彼女の赤みを帯びた顔は輝くばかりに喜びに満ちた。
「遠慮なく仰ってください」
「そう? 本当にいいのね?」

笑みを浮かべる

  貫一が爽やかに快諾したので、紅茶と栗だけで釣ってしまったのはあまりに酷かったかしらと、お峯は今更ながらに恥ずかしさを覚える。
「それじゃあね、本当に迷惑かけちゃうけれども、赤坂まで行って見て来てちょうだいね。それだけでいいの。畔柳さんのところに行って、うちの人が行ったのか行かなかったのか、もし行ったのなら何時頃着いて何時頃帰ったのかも。
  九割の確率で行ってないんですから、それだけ判れば充分だわ。それさえはっきりすれば、ひとつ証拠ができたってものですものね」
「じゃあ、行ってきましょう」
  貫一が起き上がって着替えようとしたので、
「あ、待って。今タクシー呼ぶわ」
  こう言い捨ててお峯は階下へ去った。
  あとに残された貫一は繰り返し何度も彼女が言ったことの真偽を熟考し、服を着替えて部屋を出ようとしつつも、
「婚約者にフラれて、卒業もし損なって、その結果が闇金の使用人で、おかみさんの秘密探偵か」
  こうなんとなく思いついては、一人でニヤニヤしていた。

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